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恋慕の情

  • 2021年12月14日
恋慕の情
朗読:白樺八青  

私がまだ独身で会社勤めをしていた頃のことだから、30年以上は経っている。
日帰り出張で、近鉄T駅(名古屋市)に来ていた。時刻は午前7時前、相手との打ち合わせに遅れては失礼にあたると、早めに家を出たつもりが早く着き過ぎてしまった。
”仕方ない。喫茶店に入って暇をつぶすか”
そう思い駅前の喫茶店に入ることにした。その喫茶店は7時開店のため開くまで5分ほど待っただろうか。店主がシャッターを開けると同時に店内に入った。
「すいません。だいぶお待ちになりましたか?寒かったでしょう。今熱いコーヒーを淹れますから。」
その喫茶店はウナギの寝床のように奥が深く、入ってすぐカウンター席が5つ。その奥に4人掛けのテーブル席が1つあるだけの小さな喫茶店だった。
私は一番奥のカウンター席に座りモーニングコーヒーを注文し、棚にあった雑誌をとると下世話な記事を読みだした。
そこへメガネをかけた70過ぎのおじいさんが現れ、私に向かって、
「お嬢さん、申し訳ないけどその席をわしに譲ってちょうでゃー。」
と言ったのだ。他にも席は空いている。全部で9席ある中で、唯一埋まっている席が私の座っている席なのだ。
“このおじいさんは私に言いがかりをつけるつもりなのだろうか?何のため?ただの意地悪?それとも何か理由でもあるのかしら?”
一瞬でいろいろな疑問が浮かびその場に固まっていると、店主がそのおじいさんに注意をしてくれた。
「Fさん、困りますよ。わがままもいい加減にしてもらわないと…」
「わしはそんなつもりじゃあないけど、どうしてもその場所に座りたいんじゃ。だからこうして毎日朝一番に来てそこに座ることにしておるんじゃが、今日はたまたまこのお嬢さんの方がわしより早かっただけなんじゃ。お嬢さん、頼みます。席を譲ってくだされ。」
私もこの席に執着があるわけではないので、
「どうぞ。」
と言ってその場所を譲った。
「どうもすいません。このおじいさんは常連で、毎日朝一番でその席に座るんです。」
と店主が言ったが、何の説明もなかった。おじいさんはモーニングセットを頼んで食べるとすぐに帰っていった。それを見計らって店主が私に話しかけてきた。
「あのおじいさんがその席に固執する理由が知りたいでしょ。」
私は興味ないふりをしながら、やはり固執する理由が知りたかった。店主が別の客のコーヒーを用意しながら一人でしゃべりだした。
「あのおじいさんは5年前のこの喫茶店の開業当時からの常連さんで、その頃は奥様と二人でいらしていたんですが、2年前、奥様は心臓まひで急逝してしまったんです。そして気持ちの整理が着いてから、またこの喫茶に顔を出してくれるようになったんですが、あなたが最初に座っていた場所にいつも座るようになったんです。あの場所は生前奥様が座っていた場所でね。おじいさんにとっては愛着のある思い出の場所なんです。だからあの場所に執着するんです。よっぽど奥様を愛していたんですね。許してあげてください。」
「おじいさんにお子さんはいらっしゃるんですか?」
「多分いないと思いますよ。盆暮れ、正月、ゴールデンウィークだって休まずうちに来てくれますからね。」
店主が勝手にしゃべったこととはいえ、おじいさんの秘密を知ってしまった。すでに会社勤めさえしていないおじいさんにとってはおばあさんが唯一の話し相手だったのだろう。そしてその大事な人が急にいなくなってしまった。だからそのためおばあさんとの思い出探しを毎日しているのだろう。そう思いながら喫茶店を後にした。
 20年後、たまたま近鉄T駅近くに用事があり、立ち寄ることがあった。20年前の記憶が甦る。駅を出てすぐ右にあった喫茶店はすでに別の店舗へと変わっていた。しかし20年前のあのおじいさんが気になって仕方がない。ランチを食べるために近くの焼き肉店に入って、駅前の喫茶店について聞いてみた。
「駅前の喫茶店?ああ、それだったら10年ほど前に客と大喧嘩して店をたたんだらしいよ。」
あっけない幕切れに、店主が喧嘩した相手はあのおじいさんでないことを祈るばかりだった。

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