びわの木
我が家の庭にはびわの木がある。僕が6歳のとき、学校の給食で出てきたびわの種を庭に植えたのだ。それから10年、びわの木はすっかり大きくなり、今も庭の一角を我が物顔で占領している。
「君は未だに実をつけないねぇ」
窓を開け、春先の暖かい夜風を部屋に誘いながら、僕はびわの木に語りかけた。満月に照らされたびわの葉が、ちらちらと輝いている。
──そりゃあ、この庭は私には狭すぎますもの。日当たりだって、もう少しばかり頂きたいものだ。
「ま、そう言うなよ。あの頃は、びわがこんなに大きな木になるとは知らなかったんだ」
大喜びでびわの種を持ち帰ったあの日、僕は母と一緒に庭の鉢植えに種を埋めた。芽が出て、ぐんぐん育ったびわの苗は、やがて鉢植えの底をぶち抜いてどんどん根を張ってしまった。そのせいで、びわの木は今でも庭の隅っこの、薄暗いところに生えている。
「なに、そのうちに植え替えでもしてやるさ」
──嬉しいですが、遠慮します。ここの土はみずみずしいし、かわいいせみの幼虫が私の根っこのそばで育っている。掘り返しては可哀想だ。花は置かれた場所で咲くもんです。
「何を、上手いことおっしゃる」
僕はカーテンを閉め、部屋の電気を消した。
夏が来て、びわの枝につぼみがついた。びわの花は淡いミルク色で、冬の澄んだ空によく似合う。
「君の花をお湯で煮出すと、存外いい香りがするのだ」
縁側で夕涼みしながら、僕はびわの木を眺めた。
――そうなんですか。ずいぶんと洒落た趣味をお持ちだ。
初めてびわの実を食べたとき、僕はその甘やかで奥ゆかしい香りに魅了された。びわの花も、実と同じいいにおいがする。
――なに、少しずつ栄養をためて、花だけでなくいずれ綺麗な実を結んでやります。
本当は、給食のびわだから種が去勢されていて、実がならないのかも知れない。でも、それをびわの木に言ってしまうのも可哀想な気がして、僕は夕日に洗われるびわの木をしばらく眺めていた。
風が涼しくなり、やがて秋が来た。びわの葉っぱはさらさらと揺れ、風と会話している。
「秋風は、何と言ってる?」
――今年の冬は寒くなるぞ、と。鳥たちは大慌てで毛皮を太らせているようです。
「そいつはいいや。僕も太らないとな」
夏の間に大きく育ったびわの葉は、太陽の温もりをいっぱい蓄えて、濃い緑色になっている。この葉っぱでお茶を作ると、ほのかに太陽の香りがして、夏の暖かさを思い出すことができる。
「今年も、ちょいと失礼」
――遠慮しなさんな。ばさっ、といってください。
僕は背伸びをして、青々としたつやのある葉っぱを何枚も刈り取った。
空気が冷たくなり、少し前まで夕暮れ色に着込んでいた雑木林も、葉っぱを落として風通し良さそうにしている。僕はセーターを着こんで縁側に座り、びわの木に語りかけた。
「君は上着を着なくてもいいのかい」
――面白いことをおっしゃる。私は頑丈な皮に包まれていますから、寒くてもへっちゃらです。お構いなく。
しかし、それから数日の間ひどい吹雪が来た。山の木々は悲鳴を上げ、鳥たちは物陰に隠れてじっと息をひそめている。庭に生えたびわの木は、冷たい雪に打たれるがまま、枝をあちこちへしならせて、何も言わずにずっと黙っていた。4日目の晩、ついに風がやんで外へ出てみると、辺りは一面絹のような銀世界だった。
「大丈夫か。ものすごい吹雪だったろう」
僕がびわの木に話しかけると、か細い声で返事が聞こえた。
――いや、さすがに少々こたえました。けれど、耐えてしまえばなんてことはない。それよりもほら、見てください。
すうっと一筋の風が吹き、びわの枝を揺らした。見ると、枝の先に小さな小さなふくらみがある。凍えるような月の下、産毛に覆われたふくらみがぼんやりと白く浮かび上がっている。
――ついに実がなりました。こんなに嬉しいことは初めてです。季節が巡って春が来れば、この小さなこぶが黄色くふくらんで、甘い香りを放ちます。そうしたら、ぜひ食べてください。
「うん。もちろん食べよう」
いつもより誇らしげなびわの木を、僕はしばらく黙って見つめていた。
小学の初秋、農作業を終えたお祖父さんの網籠の中のびわの房を、思い出した。ひとつもぎ取り薄皮を剥いで食べた。種が大きく果肉は薄い。草の香りが混じった甘酸っぱい味がした。口の中で飴の用に転がした種を、庭に思い切り飛ばした。