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甘夏ソーダ

  • 2021年6月07日

甘夏ソーダ

桑嶋ミキト

 店の経営が難しくなってきた。
 誰でも気軽に田舎の味を楽しんでもらおうと、一念発起して大須にレトロな大衆食堂をオープンしたのが3年前。会社を辞めて、起業するには勇気がいったが、何としても夢を実現したかった。
 幸い、夫は私の夢を応援してくれて、開業資金まで融通してくれた。夫のためにも期待に応えたいが、もう、そんな悠長なことも言っていられない。
 オープンしてから、しばらく店の経営は順調だったが、コロナで1月に緊急事態宣言が再発令されて以降、客足が激減した。ついに仕入業者への支払いが納期までにできなくなり、さらには、家賃も期日までに払えなくなってしまった。
 もはや、ここまでか。
 夫には申し訳ないが、バンザイして手を引く判断をしなければいけないタイミングだ。公務員として給料が安定している夫に甘えざるを得ない。
 店の営業終了後、私は近くの公園で一人、シーソーにまたがってカップ酒を飲みながら、泣いていた。考えれば考えるほど悔しくて仕方がない。
「そこにいたのか! トモミ。バカだな。何で一人で抱え込んでいるのさ」
 孤独の淵にいた私に、背中から温かな声をかけてくれる人がいた。振り向かなくても、その声の主は分かる。私の夫だ。
「さ、帰ろう」
 夫は私の隣に立つと、肩を叩いた。
「ごめん。ごめんなさい」
 夫の優しさが胸に突き刺さり、嗚咽が止まらない。
「謝らなくていいよ。分かってるよ。こんなご時世じゃ経営がままならないのは仕方ないって」
「もう、……店をたたもうかと思って……」
 すると、夫は何かをひらめいた表情を浮かべた。そして腕時計を見て、時間を確認する。
「よし。まだ、営業時間に間に合うな。トモミ、今から名駅に行こう。見せたいイベントがあるんだ」
 私を励まそうとする夫は、手を引いて地下鉄の駅に連れて行く。そして市営の電車に乗るとすぐに名駅に着いた。
「ここって、ミッドランドスクエア?」
「そう」
 色んなショップが並ぶこのビルに入ると、すぐ眼の前にあるエスカレーターで、吹き抜けの地下1階に行く。
 すると、催事場でマルシェが行われていて、多くの人で賑わっていた。会場には花束にハチミツ、イチゴ、スコーン、酵素シロップのドリンク、テリーヌサンドなど色んな個人事業主らしき店主らが屋台を並べている。
「この中に、僕のお世話になっている人がいるんだ。あ、いた! 晋吾さーん!」
 夫は軽トラックを改造した屋台の店舗に行き、店主に挨拶した。メガネをかけた芸術家風の店主は、人が好さそうな屈託のない笑顔で「ああ、奥さんですか」と私を見て礼をする。
「いつもの甘夏ソーダ、2つください」
 晋吾さんは、三重県いなべ市で採れたオーガニックの甘夏やゆずなど果実を酵素シロップに発酵し、ソーダなどで割って販売する。驚いたのがその価格設定だ。1杯500円という強気の値段だが、売れているのがよく分かる。
「今日の売上はどう?」
 聞きづらいことを、夫は晋吾さんにサラリと言った。
「うーん、20は超えたね。まあまあ」
 20万円? まさか、今日1日で? 私には信じられなかった。私の店の今月1か月分に近い。
「晋吾さんだけじゃなく、ここにいる人たちは、みんな店がないんだ。客が来る商売は、これからの時代もう成立しづらいから、客がいる場所に行くスタイルを取ってる。マルシェだと、固定費がかなり安いからリスクも少ないもんね」
 私には、今までこんな発想はなかったし、苦しくなると、どんどん視野が狭くなってしまっていた。
「はい、甘夏ソーダ、どうぞ」
 軽トラックの屋台から晋吾さんが、酵素シロップでつくった甘夏ソーダを出してくれた。傷ついた心を癒してくれるような優しい甘さと、フレッシュな果実の酸味が口いっぱいに広がる。
「おいしいね」
「うん」
 夫が私に伝えたかったのは、これだったのだ。
 まだ、私にもやれることがあるかもしれない。きっと視野を広げれば、マルシェ出店のほかにも問題を解決できる手法がある。
 ありがとう、と夫に耳打ちをして、私たちは静かに甘夏ソーダを飲み続けた。

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