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恍惚のサンドイッチ

  • 2021年6月16日

恍惚のサンドイッチ

山本桃州

朗読:西山諒(人生応援劇団パンジャーボンバーズ)

 わたしは今、人生の壮大な目的を果たすために、名古屋へと向かっている。それは、長年夢見ていたことで、でもなかなか一歩を踏み出せていなかったことだった。しかし、自分から行動を起こさなければ、一生その夢は叶わないとようやく気づき、休日の今日、衝動的に、始発の電車に飛び乗ったのであった。
 長時間電車に揺られ、ようやく名古屋駅に着いた。時間は、午前8時。早速、目的地へと向かう。もう入れるはずだ。その場所は、駅構内にあった。
 意外と早く、目的地は見つかった。そそくさと中へと入る。席に案内されると、深いため息をついて、腰をかけた。そして、ずっと温めていた言葉を発した。
「ホットコーヒーと、エビフライサンドをください」
 ついに言った。ここまで長かった。心の中でファンファーレが鳴った。
 わたしは、三度の飯よりパンが好きというくらいのパン好きだ。中でも、特に、サンドイッチが大好きなのだ。地元の名高いパン屋はだいたい訪れたし、家でもよく作る。ふんわりと焼いたオムレツを挟んだ卵サンドイッチは、十八番だ。
 そんなわたしの長年の憧れが、ここ、名古屋が誇る老舗喫茶店コンパルの、エビフライサンドイッチなのであった。
 それは、エビフライ3本、卵焼き、キャベツが入り、それらをカツソースとタルタルソースのダブル使いで味を調え、トーストパンでサンドしているということだ。卵焼きだけでも十分おいしいサンドイッチに、さらにエビフライを3本も入れるなんて、まるで、夢のようではないか。名古屋の人たちは、何て幸せものなのだろう。
 メディアでよく見ていたそのサンドイッチに憧れ、わたしは家の近くで、同じものを探した。しかし、似たようなものはあるのだが、同じものは、結局見つけられず、憧れは憧れのままで終わっていた。しかし今日、一念発起し、ようやく名古屋までやって来たという次第なのだ。
 ついに、コーヒーとサンドイッチが運ばれてきた。
 はやる心を落ち着けようと、まずはコーヒーを一口啜る。サンドイッチにばかり関心が向いていて、正直言って、コーヒーには期待していなかったのだが、丁度いい挽き具合、香ばしさに驚く。
 コーヒーで精神を鎮めたあとに、ついにサンドイッチに手を伸ばそうとした。しかし、躊躇してしまった。手は、事前に充分に浄めたはずなのに、サンドイッチを前にすると、もう一度お手ふきで手を拭かずにはおれない神聖さが、このサンドイッチにはあった。長年思いを寄せた相手に触れるときは、ひょっとしたら、こんな心境なのかもしれない。
 しかし、熱いうちに食べ始めなければ、せっかくここまで来た意味がないし、出来立てのサンドイッチにも失礼だ。意を決して、わたしは両手でサンドイッチをつかんだ。
 そして、ついに運命の瞬間が来た。大きく口を開けて、エビフライの部分がきちんと入るように、ガブリとかぶりつく。目を閉じて、丁寧に咀嚼する。
 そして、悟った。わたしは、この瞬間のために生きてきた。そう言い切って間違いない。
 エビフライと卵焼きとキャベツとトーストが渾然一体となって作り出すハーモニー。これこそが、口の中のオーケストラというものなのか。
 一口目がようやく体の中へ降りていった。しばらく、といっても、それは数秒のことではあったが、わたしは完全なる恍惚状態にあった。名古屋駅の喫茶店の片隅で、エビフライサンドイッチによって、最高潮に達している人間がいるとは、名古屋中の誰も気づいていないだろう。
 そして、また恍惚への旅へと繰り出し、それを何回か繰り返した。そして、数分後には、すべて終わった。
 心から満足して、残りのコーヒーを啜った。やっぱり、来てよかった。思い残すことはもう何もなかった。
 さて、まだ午前8時半だ。はて、今から名古屋で何をしようか。その後のことを、何も考えずに来てしまった。

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