春の日暮です。
唐の都洛陽(らくよう)の西の門の下に、ぼんやり空を仰いでいる、一人の若者がありました。
若者は名は杜子春(とししゅん)といって、金持の息子でしたが、今は財産をつかい尽くして、その日の暮しにも困る位、憐(あわれ)な身分になっているのです。
何しろその頃、洛陽といえば、天下に並ぶもののない、繁昌をきわめた都ですから、往来にはまだしっきりなく、人や車が通っていました。門一ぱいに当っている、油のような夕日の光の中に、老人のかぶった紗の帽子や、トルコの女の金のイヤリングや、白馬に飾った色糸の手綱が、絶えず流れて行く様子は、まるで絵のような美しさです。
しかし杜子春は相変らず、門の壁に身をもたせて、ぼんやり空ばかり眺めていました。空には、もう細い月が、うらうらとなびいた霞の中に、まるで爪の痕かと思う程、かすかに白く浮んでいるのです。
「日は暮れるし、腹は減るし、その上もうどこへ行っても、泊めてくれる所はなさそうだし。こんな思いをして生きている位なら、いっそ川へでも身を投げて、死んでしまった方がましかも知れない」
杜子春はひとりさっきから、こんな取りとめもないことを思いめぐらしていたのです。
するとどこからやって来たか、突然彼の前へ足を止めた、片目眇(すがめ)の老人があります。それが夕日の光を浴びて、大きな影を門へ落とすと、じっと杜子春の顔を見ながら「お前は何を考えているのだ」と、横柄に言葉をかけました。
「私ですか。私は今夜寝る所もないので、どうしたものかと考えているのです」
老人の尋ね方が急でしたから、杜子春はさすがに眼を伏せて、思わず正直な答えをしました。
「そうか。それは可哀そうだな」
老人は暫く何事か考えているようでしたが、やがて、往来にさしている夕日の光を指さしながら、
「ではおれがいいことを一つ教えてやろう。今この夕日の中に立って、お前の影が地に映ったら、その頭に当る所を夜中に掘って見るがいい。きっと車に一ぱいの黄金が埋まっているはずだから」
「ほんとうですか」
杜子春は驚いて、伏せていた眼をあげました。ところが更に不思議なことには、あの老人はどこへ行ったか、もうあたりにはそれらしい、影も形も見当りません。その代り空の月の色は前よりもなお白くなって、休みない往来の人通りの上には、もう気の早いコウモリが二三匹ひらひら舞っていました。
杜子春は一日の内に、洛陽の都でも唯一人という大金持になりました。あの老人の言葉通り、夕日に影を映して見て、その頭に当る所を、夜中にそっと掘って見たら、大きな車にも余るくらい、黄金が一山出て来たのです。
大金持になった杜子春は、すぐに立派な家を買って、玄宗(げんそう)皇帝にも負けない位、贅沢な暮しをし始めました。蘭陵(らんりょう)の酒を買わせるやら、桂州(けいしゅう)の竜眼肉をとりよせるやら、日に四度色の変る牡丹を庭に植えさせるやら、白孔雀を何羽も放し飼いにするやら、玉を集めるやら、錦を縫わせるやら、香木の車を造らせるやら、象牙の椅子をあつらえるやら、その贅沢を一々書いていては、いつになってもこの話がおしまいにならない位です。
するとこういう噂を聞いて、今までは路で行き合っても、挨拶さえしなかった友だちなどが、朝夕遊びにやって来ました。それも一日毎に数が増して、半年ばかり経つ内には、洛陽の都に名を知られた才子や美人が多い中で、杜子春の家へ来ないものは、一人もない位になってしまったのです。杜子春はこのお客たちを相手に、毎日酒盛りを開きました。その酒盛りのまた盛大なことは、中々口にはつくされません。ごくかいつまんだだけをお話しても、杜子春が金の杯に西洋から来た葡萄酒を汲んで、天竺生れの魔法使いが刀を呑んで見せる芸に見とれていると、そのまわりには二十人の女たちが、十人は翡翠の蓮の花を、十人は瑪瑙(めのう)の牡丹の花を、いづれも髪に飾りながら、笛や琴を節面白く演奏しているという景色なのです。
しかしいくら大金持ちでも、お金には際限がありますから、さすがに贅沢家の杜子春も、一年二年とたつ内には、だんだん貧乏になりだしました。そうすると人間は薄情なもので、昨日までは毎日来た友だちも、今日は門の前を通ってさえ、挨拶一つして行きません。ましてとうとう三年目の春、また杜子春が以前の通り、一文無しになってみると、広い洛陽の都の中にも、彼に宿を貸そうという家は、一軒もなくなってしまいました。いや、宿を貸すどころか、今ではお椀に一杯の水も、恵んでくれるものはないのです。
そこで彼はある日の夕方、もう一度あの洛陽の西の門の下へ行って、ぼんやり空を眺めながら、途方に暮れて立っていました。するとやはり昔のように、片目眇の老人が、どこからか姿を現して、
「お前は何を考えているのだ」
と、声をかけるではありませんか。
杜子春は老人の顔を見ると、恥しそうに下を向いたまま、しばらくは返事もしませんでした。が、老人はその日も親切そうに、同じ言葉を繰り返しますから、こちらも前と同じように、
「私は今夜寝る所もないので、どうしたものかと考えているのです」
と、恐る恐る返事をしました。
「そうか。それは可哀そうだな、ではおれがいいことを一つ教えてやろう。今この夕日の中へ立って、お前の影が地に映ったら、その胸に当る所を、夜中に掘ってみるがいい。きっと車にいっぱいの黄金が埋まっている筈だから」
老人はこう言ったと思うと、今度もまた人ごみの中へ、掻き消すように隠れてしまいました。
杜子春はその翌日から、たちまち天下第一の大金持に返りました。と同時に相変らず、し放題な贅沢をし始めました。庭に咲いている牡丹の花、その中に眠っている白孔雀、それから刀を呑んで見せる、天竺から来た魔法使いすべてが昔の通りなのです。
ですから車に一ぱいあった、あの夥しい黄金も、また三年ばかりたつうちには、すっかりなくなってしまいました。
「お前は何を考えているのだ」
片目眇の老人は、三度杜子春の前へ来て、同じことを問いかけました。もちろん彼はその時も、洛陽の西の門の下に、ほそぼそと霞を破っている三日月の光を眺めながら、ぼんやり佇んでいたのです。
「私ですか。私は今夜寝る所もないので、どうしようかと思っているのです」
「そうか。それは可哀そうだな。ではおれがいいことを教えてやろう。今この夕日の中へ立って、お前の影が地に映ったら、その腹に当る所を、夜中に掘って見るが好い。きっと車に一ぱいの――」
老人がここまで言いかけると、杜子春は急に手を挙げて、その言葉を遮りました。
「いや、お金はもういらないのです」
「金はもういらない? ははあ、では贅沢をするにはとうとう飽きてしまったとみえるな」
老人は審しそうな眼つきをしながら、じっと杜子春の顔を見つめました。
「何、贅沢に飽きたのじゃありません。人間というものに愛想がつきたのです」
杜子春は不平そうな顔をしながら、突慳貪(つっけんどん)にこう言いました。
「それは面白いな。どうしてまた人間に愛想が尽きたのだ?」
「人間はみな薄情です。私が大金持になった時には、世辞も追従もしますけれど、一旦貧乏になって御覧なさい。やさしい顔さえもして見せはしません。そんなことを考えると、たとえもう一度大金持になった所が、何にもならないような気がするのです」
老人は杜子春の言葉を聞くと、急ににやにや笑いだしました。
「そうか。いや、お前は若い者に似合わず、感心に物のわかる男だ。ではこれからは貧乏をしても、安らかに暮して行くつもりか」
杜子春はちょいとためらいました。が、すぐに思い切った眼をあげると、訴えるように老人の顔を見ながら、
「それも今の私には出来ません。ですから私はあなたの弟子になって、仙術の修業をしたいと思うのです。いいえ、隠してはいけません。あなたは道徳の高い仙人でしょう。仙人でなければ、一夜の内に私を天下第一の大金持にすることは出来ない筈です。どうか私の先生になって、不思議な仙術を教えて下さい」
老人は眉をひそめたまま、しばらくは黙って、何事か考えているようでしたが、やがてまたにっこり笑いながら、
「いかにもおれは峨眉山(がびさん)に棲んでいる、鉄冠子(てつかんし)という仙人だ。始めお前の顔を見た時、どこか物わかりがよさそうだったから、二度まで大金持にしてやったのだが、それほど仙人になりたければ、おれの弟子にとり立ててやろう」と、快く願いを受け入れてくれました。
杜子春は喜んだの、喜ばないのではありません。老人の言葉がまだ終らない内に、彼は大地に額をつけて、何度も鉄冠子におじぎをしました。
「いや、そうお礼などは言ってもらうまい。いくらおれの弟子にした所で、立派な仙人になれるかなれないかは、お前次第で決まることだからな。――が、ともかくもまずおれと一緒に、峨眉山の奥へ来て見るがいい。おお、幸い、ここに竹の杖が一本落ちている。では早速これへ乗って、ひと飛びに空を渡るとしよう」
鉄冠子はそこにあった青竹を一本拾い上げると、口の中に呪文を唱えながら、杜子春と一緒にその竹へ、馬にでも乗るようにまたがりました。すると不思議ではありませんか。竹の杖はたちまち竜のように、勢いよく大空へ舞い上って、晴れ渡った春の夕空を峨眉山の方角へ飛んで行きました。
杜子春は胆をつぶしながら、恐る恐る下を見下しました。が、下にはただ青い山々が夕明りの底に見えるばかりで、あの洛陽の都の西の門は、とうに霞にまぎれたのでしょう。どこを探しても見当りません。その内に鉄冠子は、白い鬢の毛を風に吹かせて、高らかに歌を唱い出しました。
朝は北の海、夕方には南の山へ。
この高さにおじけぬとは度胸はあるが
三度も助けたのに分かっておらぬ。
お主は仙人になどなれぬであろう。
歌を吟ずるうちに洞庭湖(どうていこ)も超えてしまった。
もう後戻りはできぬ。
二人を乗せた青竹は、間もなく峨眉山へ舞い下りました。
そこは深い谷に臨んだ、幅の広い一枚岩の上でしたが、よくよく高い所だと見えて、中空に垂れた北斗の星が、茶碗程の大きさに光っていました。元より人跡の絶えた山ですから、あたりはしんと静まり返って、やっと耳にはいるものは、後ろの絶壁に生えている、曲りくねった一株の松が、こうこうと夜風に鳴る音だけです。
二人がこの岩の上に来ると、鉄冠子は杜子春を絶壁の下に座らせて、
「おれはこれから天上(てんじょう)へ行って、西王母(せいおうぼ)におめにかかって来るから、お前はその間ここに坐って、おれの帰るのを待っているがいい。多分おれがいなくなると、いろいろな魔性が現れて、お前をたぶらかそうとするだろうが、たとえどんなことが起ろうとも、決して声を出すのではないぞ。もし一言でも口をきいたら、お前は到底仙人にはなれないものだと覚悟をしろ。よいか。天地が裂けても、黙っているのだぞ」と言いました。
「大丈夫です。決して声なぞは出しはしません。命がなくなっても、黙っています」
「そうか。それを聞いて、おれも安心した。ではおれは行って来るから」
老人は杜子春に別れを告げると、またあの竹の杖にまたがって、夜目にも削ったような山々の空へ、一文字に消えてしまいました。
杜子春はたった一人、岩の上に座ったまま、静かに星を眺めていました。するとかれこれ半時ばかり経って、深い山の冷えた空気が肌寒く薄い着物にとおり出した頃、突然空中に声があって、
「そこにいるのは何者だ」
と叱りつけるではありませんか。しかし杜子春は仙人の教え通り、何とも返事をしずにいました。所がまたしばらくすると、やはり同じ声が響いて、
「返事をしないと立ち所に、命はないものと覚悟しろ」
と、いかめしくおどしつけるのです。杜子春はもちろん黙っていました。
と、どこから登って来たか、爛々と眼を光らせた虎が一匹、忽然と岩の上に躍り上って、杜子春の姿を睨みながら、一声高く哮りました。のみならずそれと同時に、頭の上の松の枝が、激しくざわざわ揺れたと思うと、後ろの絶壁の頂きからは、四斗樽(しとだる)ほどの白蛇が一匹、炎のような舌を吐いて、見る見る近くへ下りて来るのです。
杜子春はしかし平然と、眉毛も動かさずに座っていました。
虎と蛇とは、一つ餌食を狙って、互いに隙でも窺うのか、暫くは睨み合いの体でしたが、やがてどちらが先ともなく、一度に杜子春に飛びかかりました。が、虎の牙に噛まれるか、蛇の舌に呑まれるか、杜子春の命は瞬く内に、なくなってしまうと思った時、虎と蛇とは霧の如く、夜風と共に消え失せて、後にはただ、絶壁の松が、さっきの通りこうこうと枝を鳴らしているばかりなのです。
杜子春はほっと一息しながら、今度はどんなことが起るかと、心待ちに待っていました。
すると一陣の風が吹き起って、墨のような黒雲が一面にあたりをとざすや否や、うす紫の稲妻がたちどころに闇を二つに裂いて、凄まじく雷が鳴り出しました。いや、雷ばかりではありません。それと一緒に滝のような雨も、いきなりどうどうと降り出したのです。
杜子春はこの天変の中に、恐れ気もなく座っていました。
風の音、雨のしぶき、それから絶え間ない稲妻の光。しばらくはさすがの峨眉山も、覆るかと思うくらいでしたが、その内に耳をもつんざく程、大きな雷鳴が轟いたと思うと、空に渦巻いた黒雲の中から、まっ赤な一本の火柱が、杜子春の頭へ落ちかかりました。
杜子春は思わず耳をおさえて、一枚岩の上へひれ伏しました。が、すぐに眼を開いて見ると、空は以前の通り晴れ渡って、向うに聳えた山山の上にも、茶碗程の北斗の星が、やはりきらきら輝いています。して見れば今の大嵐も、あの虎や白蛇と同じように、鉄冠子の留守をつけこんだ、魔性の悪戯に違いありません。杜子春はようやく安心して、額の冷汗を拭いながら、また岩の上に座り直しました。
が、そのため息がまだ消えない内に、今度は彼の座っている前へ、金の鎧を着下した、身の丈、三丈もあろうという、厳かな神将が現れました。神将は手に三叉の戟(ほこ)を持っていましたが、いきなりその戟の切先を杜子春の胸もとへ向けながら、眼を嗔らせて叱りつけるのを聞けば、
「こら、その方は一体何物だ。この峨眉山という山は、天地開闢の昔から、おれが住んでいる所だぞ。それも憚らずたった一人、ここへ足を踏み入れるとは、よもや唯の人間ではあるまい。さあ命が惜しかったら、一刻も早く返答しろ」
しかし杜子春は老人の言葉通り、黙然と口を噤んでいました。
「返事をしないか。――しないな。よし。しなければ、しないで勝手にしろ。その代りおれの眷属たちが、その方をずたずたに斬ってしまうぞ」
神将は戟を高くあげて、向うの山の空を招きました。その途端に闇がさっと裂けると、驚いたことには無数の神兵が、雲の如く空に充満て、それが皆槍や刀をきらめかせながら、今にもここへひとなだれに攻め寄せようとしているのです。
この景色を見た杜子春は、思わずあっと叫びそうにしましたが、すぐにまた鉄冠子の言葉を思い出して、一生懸命に黙っていました。神将は彼が恐れないのを見ると、怒ったの怒らないのではありません。
「この強情者め。どうしても返事をしなければ、約束通り命はとってやるぞ」
神将はこう喚くが早いか、三叉の戟を閃かせて、一突きに杜子春を突き殺しました。そうして峨眉山もどよむ程、からからと高く笑いながら、どこともなく消えてしまいました。もちろんこの時はもう無数の神兵も、吹き渡る夜風の音と一緒に、夢のように消え失せた後だったのです。
北斗の星はまた寒そうに、一枚岩の上を照らし始めました。絶壁の松も前に変らず、こうこうと枝を鳴らせています。が、杜子春はとうに息が絶えて、仰向けにそこへ倒れていました。
杜子春の体は岩の上へ、仰向けに倒れていましたが、杜子春の魂は、静かに体から抜け出して、地獄の底へ下りて行きました。
この世と地獄との間には、闇穴道(あんけつどう)という道があって、そこは年中暗い空に、氷のような冷たい風がぴゅうぴゅう吹き荒んでいるのです。杜子春はその風に吹かれながら、暫くは唯木の葉のように、空を漂って行きましたが、やがて森羅殿(しんらでん)という額のかかった立派な御殿の前へ出ました。
御殿の前にいた大勢の鬼は、杜子春の姿を見るや否や、すぐにそのまわりを取りまいて、階段の前へ引き据えました。階段の上には一人の王様が、まっ黒な着物に金の冠をかぶって、いかめしくあたりを睨んでいます。これは兼ねて噂に聞いた、閻魔大王に違いありません。杜子春はどうなることかと思いながら、恐る恐るそこへ跪いていました。
「こら、その方は何の為に、峨眉山の上へ座っていた?」
閻魔大王の声は雷のように、階段の上から響きました。杜子春は早速その問いに答えようとしましたが、ふとまた思い出したのは、
「決して口を利くな」
という鉄冠子の戒めの言葉です。そこでただ頭を垂れたまま、黙っていました。すると閻魔大王は、持っていた鉄の笏を挙げて、顔中の鬚を逆立てながら、
「その方はここをどこだと思う? 速に返答をすれば好し、さもなければ時を移さず、地獄の呵責に遇わせてくれるぞ」
と、威丈高に罵りました。
が、杜子春は相変らず唇一つ動かしません。それを見た閻魔大王は、すぐに鬼どもの方を向いて、荒々しく何か言いつけると、鬼どもは一度に畏って、たちまち杜子春を引き立てながら、森羅殿の空へ舞い上りました。
地獄には誰でも知っている通り、剣の山や血の池の外にも、焦熱地獄という焔の谷や極寒地獄という氷の海が、真暗な空の下に並んでいます。鬼どもはそういう地獄の中へ、代る代る杜子春を放り込みました。
ですから杜子春は無残にも、剣に胸を貫かれるやら、焔に顔を焼かれるやら、舌を抜かれるやら、皮を剥がれるやら、鉄の杵に撞かれるやら、油の鍋に煮られるやら、毒蛇に脳味噌を吸われるやら、鷹に眼を食われるやら、――その苦しみを数え立てていては、到底際限がない位、あらゆる責苦にあわされたのです。それでも杜子春は我慢強く、じっと歯を食いしばったまま、一言も口をききませんでした。
これにはさすがの鬼どもも、呆れ返ってしまったのでしょう。もう一度夜のような空を飛んで、森羅殿の前へ帰って来ると、さっきの通り杜子春を階段の下に引き据えながら、御殿の上の閻魔大王に、
「この罪人はどうしても、ものを言う気色がございません」と、口を揃えて言いました。
閻魔大王は眉をひそめて、しばらく思案に暮れていましたが、やがて何か思いついたと見えて、
「この男の父母は、畜生道に落ちているはずだから、早速ここへ引き立てて来い」と、一匹の鬼にいいつけました。
鬼はたちまち風に乗って、地獄の空へ舞い上りました。と思うと、また星が流れるように、二匹の獣を駆り立てながら、さっと森羅殿の前へ下りて来ました。
その獣を見た杜子春は、驚いたの驚かないのではありません。なぜかといへばそれは二匹とも、形は見すぼらしい痩せ馬でしたが、顔は夢にも忘れない、死んだ父と母の通りでしたから。
「こら、その方は何のために、峨眉山の上に座っていたか、まっすぐに白状しなければ、今度はその方の父母に痛い思いをさせてやるぞ」
杜子春はこう嚇されても、やはり返答をしずにいました。
「この不孝者めが。その方は父母が苦しんでも、その方さえ都合が好ければ、好いと思っているのだな」
閻魔大王は森羅殿も崩れる程、凄じい声で喚きました。
「打て。鬼ども。その二匹の畜生を、肉も骨も打ち砕いてしまえ」
鬼どもは一斉に「はっ」と答えながら、鉄の鞭をとって立ち上ると、四方八方から二匹の馬を、未練未釈なく打ちのめしました。鞭はりゅうりゅうと風を切って、所嫌わず雨のように、馬の皮膚を打ち破るのです。馬は、畜生になった父母は、苦しそうに身を悶えて、眼には血の涙を浮べたまま、見てもいられないほど嘶き立てました。
「どうだ。まだその方は白状しないか」
閻魔大王は鬼どもに、しばらく鞭の手をやめさせて、もう一度杜子春の答えを促しました。もうその時には二匹の馬も、肉は裂け骨は砕けて、息も絶え絶えに階段の前へ、倒れ伏していたのです。
杜子春は必死になって、鉄冠子の言葉を思い出しながら、緊く眼をつぶっていました。するとその時彼の耳には、ほとんど声とはいえないくらい、かすかな声が伝わって来ました。
「心配をおしでない。私たちはどうなっても、お前さえ幸せになれるのなら、それより結構なことはないのだからね。大王が何と仰っても、言いたくないことは黙っておいで」
それは確かに懐しい、母親の声に違いありません。杜子春は思わず、眼をあきました。そうして馬の一匹が、力なく地上に倒れたまま、悲しそうに彼の顔へ、じっと眼をやっているのを見ました。母親はこんな苦しみの中にも、息子の心を思いやって、鬼どもの鞭に打たれたことを、怨む気色さえも見せないのです。大金持ちになればお世辞を言い、貧乏人になれば口もきかない世間の人たちに比べると、何という有難い志でしょう。何という健気な決心でしょう。杜子春は老人の戒めも忘れて、転(まろ)ぶようにその側へ走りよると、両手に半死の馬の首を抱いて、はらはらと涙を落しながら、
「お母さん!」
と一声を叫びました。
その声に気がついてみると、杜子春はやはり夕日を浴びて、洛陽の西の門の下に、ぼんやり佇んでいるのでした。霞んだ空、白い三日月、絶え間ない人や車の波、――すべてがまだ峨眉山へ、行かない前と同じことです。
「どうだな。おれの弟子になった所が、とても仙人にはなれはすまい」
片目眇の老人は微笑を含みながら言いました。
「なれません。なれませんが、しかし私はなれなかったことも、かえって嬉しい気がするのです」
杜子春はまだ眼に涙を浮べたまま、思わず老人の手を握りました。
「いくら仙人になれた所が、私はあの地獄の森羅殿の前に、鞭を受けている父母を見ては、黙っている訳にはいきません」
「もしお前が黙っていたら――」と鉄冠子は急に厳な顔になって、じっと杜子春を見つめました。
「もしお前が黙っていたら、おれは即座にお前の命を絶ってしまおうと思っていたのだ。――お前はもう仙人になりたいという望みも持っていまい。大金持になることは、元より愛想がつきた筈だ。ではお前はこれから後、何になったらいいと思う」
「何になっても、人間らしい、正直な暮しをするつもりです」
杜子春の声には今までにない晴れ晴れした調子が罩っていました。
「その言葉を忘れるなよ。ではおれは今日限り、二度とお前には遇わないから」
鉄冠子はこう言う内に、もう歩き出していましたが、急にまた足を止めて、杜子春の方を振り返ると、
「おお、幸い、今思い出したが、おれは泰山の南の麓に一軒の家を持っている。その家を畑ごとお前にやるから、早速行って住まうがいい。今頃は丁度家のまわりに、桃の花が一面に咲いているだろう」
と、さも愉快そうにつけ加えました。
杜子春は読んだことがあったのですが、人の声で聞くとかくも映像のように新鮮に物語が入ってくるのだと感動しました。過去の文学作品を古臭いと思わずもっと様々な作品に触れてみたくなりました。
子供の頃読んだ懐かしいお話を聴かせていただきほっこりしました
朗読していただけると家事をしながら聴くことが出来て大変ありがたく思います
これからも色々なジャンルのお話を期待します
長谷川さんの声は沁みます 萌さんの明るい声は希望を感じます
また朗読お願いします
ありがとうございました
目を閉じてお話を聴いていると、それはそれは鮮やかな情景が、人物も生き生きとしてる様が目に浮かびました。とても面白かったです。またお二人の声がなんとも心地よくて素敵でした♪
原作をしっかりと読んだことがなかったので、今回改めて物語を知るきっかけをいただきました。演劇は観る側によって解釈が変わる面白さがありますが、声だけで表現される「聴く演劇」はまさに耳からの情報でそれぞれの浮かぶ情景が生まれ、とても楽しませていただきました。
長谷川さんの落ち着く声も安田さんの中性的な声も物語を真っ直ぐ自然に届けてくださり、繰り返し聴いています。心の本棚に大切に並べたいと思います。ありがとうございました!
贅を尽くす場面では美しい錦の情景、洛陽の西の門の下では寂しい夕方の景色、地獄の場面では厳しい責め苦の恐ろしさ、ありとあらゆる描写を、余すところなく味わうことができました。
元々好きな作品でしたが、この朗読を経て更に好きになることができたため、「杜子春」の収められている本を買ってみようと思います。
他の作品の朗読も拝聴できると嬉しいです。どうぞよろしくお願いいたします。
長谷川聖さんの声、情景がしっかり浮かび作品に充分浸れました。
いい作品ですね。別の作品もぜひ長谷川聖さんの声で聴かせてください。