サボテントゲのピアス
カラン
なんの音だろうと思った。
職業柄、耳はいいほうだ。コンサート終わりにひっそりと慎ましやかに一人居酒屋で乾杯をしていた私は、聞きなれない音を耳にして首を傾げた。
「カラン」という音でこの店では溢れている。実はそれを聞きに居酒屋に来ていると言っても過言ではない。
自分の手にするマレットと目の前で応えてくれるティンパニからは響いてこないあの音。相棒たちから響くあの重く弾んだ愛嬌のある音ももちろん愛しているが、この「カラン」はまた格別の響きだ。
だが、それとは違う「カラン」がした。
そもそも氷とグラスの音ではない、何かもっと硬質な何かが氷に当たる音だった。
その方向を見るともなしに見る。
女性が、イヤリングを、グラスに落としていた。
「な、何してるんですか!?」
思わず立ち上がってしまった。どんなことをしようとそれなりに無礼講な場所ではあるが、グラスの中の大ぶりのイヤリングと、もう一つ彼女の指先につままれて今にも相方の後を追ってグラスの液体へ没しようとしていたもう片割れを見たら、声を上げずにはいられなかった。
その主は、大胆な行動に見合うような、トゲトゲケバケバした女性だった。私は心の中で勝手に「サボテンさん」と名付けた。まつげの感じやトゲトゲした感じが、まさにそんな感じだったのだ。
サボテンさんはじろりとこちらを見ると、思いのほか弱々しい声で「関係ないでしょ」と言った。
すぐに私から外されてグラスへ向けられた視線は、意外にも初対面の私ですら胸を締め付けられるようなものだった。グラスに物を没すなど、捨てているようなものなのに。
それに気づいた瞬間、私は普段なら絶対にしない、席を詰めるという強気な行動に出た。私も結構酔っていたのかもしれない。
「ちょっ…」
「大切なものなんですか?」
「は?」
「ですよね、きっと。そんな風に見えて」
ちょっとバツの悪い表情を浮かべているが、否定はしない。じっとグラスの中身をよく見ると、氷と酒とイヤリングの他に、先客だろう主役がいた。それに気づいたとたん、
「ああ」
と声が出た。
「なによ?」
一人で勝手に納得した私を少し気味悪げに見た彼女に、確認してみる。
「おばあさまに、飲ませてあげてた、んですか?」
「…!?」
サボテンさんは息を呑んだ。
その表情が、私の妄想ともいえる読みが当たっていたことを物語っていた。
ごろりと鎮座していたのは、今時見ない「おばあちゃん特製の梅酒だよ。実もしっかりいれておいたからね」という、あの梅だ。市販の梅酒の梅ではない、おばあちゃんがくしゃっと笑ったような、あの。
私の眼には少なくともそう映った。そして、彼女が手にしていたやけに古いデザインのイヤリングが、彼女の祖母を、私に連想させたのだ。
唖然としていた彼女だが、諦めたようにふっと息を抜く。そんなこともあるわよねと言いたげに。
「命日なの」
ぽつりと言った。
「毎年、漬けてたわ。自分は弱くて飲めもしないのに、母さんや、あたしが好きだからって」
そう言う彼女はイヤリングたちにお別れを言っていたように見えた。そのまま立ち去ってしまいそうだった。それは、悲しすぎるように思えた。
「これからも、見守ってもらいましょうよ」
「でも、あたしイヤリングしないのよ?持って歩いているだけ。それじゃあイヤリングも泣いちゃうでしょう?こんなピアスだらけの孫に持ち歩かれるだけじゃあ」
「なら、ピアスにしたらどうですか?今、リフォームとかあるじゃないですか」
私の提案に、彼女は思い寄らずといった顔をした後、笑い出した。
「そうね。アンティーク、嫌いじゃないの」
生理的な涙をぬぐいながらそう言った彼女は微笑んでいた。器用に割りばしで梅酒のなかのイヤリングも拾い上げ、おしぼりで拭って元あったのであろうポーチのなかへとそれらを収めた。
「ありがとう」
それだけ言って彼女は会計をして店を出て行った。
彼女の残したグラスが「カラン」と音を立てた。その音色を優しい音だと、私は思った。