迷路地
今日も仕事を終え、そのまま家路につく。そのつもりだったが、少しいつもと違う道で帰ろうとふと思った。いつもより早い時間に帰れたこともあるが、要は気晴らしがしたかったのだ。こうしたことは、たびたび自分の中でおこる。決まって、今の暮らしに疑問や疲れを感じたときだ。それをして、何かが劇的に変わることもないが、せめていつも目に映る風景を変えて新鮮な気分を味わいたかった。「お、あんな道あったか?」僕は、見慣れた大通りを外れ、横道に入っていく。大人が二人も並べば幅いっぱいの路地は、奥へと続いている。両脇は、家々の壁から葉の生い茂った枝が好きに伸び、空はまだほんのりと明るいのに道端は薄暗く、そのせいか道はより狭く見えた。しばらくは、辺りの緑を眺めたり、時折どこかの家から漏れてくるテレビの音を聞き流しながら歩いていたが、あることに気づいた。立ち止まり、前後に顔を向ける。誰一人歩いてこない。そして、道の出口もまだ見えてこない。こんなに長い路地なのか?自然と歩く速さも上がっていく中、前方の軒先に小さな看板が吊るされているのが目に入った。
「迷路地」
メイロジ? 店を覗くと、年季の入った木造の店内に日本語や英語、さらには知らない外国語の文字が記された本が壁一面に並んでいる。そして、それらに囲まれて一人のお婆さんがパイプ椅子にちょこんと座っていた。僕は人と出会えたことの安心感と嬉しさに背中を押され足を踏み入れた。
「いらっしゃい」
お婆さんは、目を細めた。
「あの、寄らせてもらってもいいですか?」
「どうぞ、どうぞ。今、お茶も用意するわね」
お婆さんは立ち上がり、そばの小さなテーブルに置かれていた急須に手を伸ばした。
「いや、おかまいなく」
そんな僕の言葉をよそに、お婆さんは「ちょうど、お茶でも飲もうと思ってたところなのよ」と言いながら、湯呑みにお茶をそそいだ。
「ここにあるの、ぜんぶ迷路の本ですか?」
「そうよ。迷路の専門店。あなたには、どれがいいかしら。これは?」
目の前に差し出された本の表紙には、“8歳から”と書かれている。ページをめくると、いろんな迷路が載っていたがどれも目で追うだけでゴールまでの道順がわかる簡単なものだった。
「これは……」
「簡単?じゃあ、こちらはどう?25歳向けよ」
そんなに細かな年齢設定なんてあるのか?と思いながらも本を開くと、さすがに先ほどより難易度が高かった。
「あちらのテーブルで、挑戦してごらんなさいな」
「いや、でも」
「いいから、いいから。いま、椅子を出してあげるわ。あ、お茶も冷めないうちに」
僕は、お婆さんが用意してくれた椅子に腰を下ろし、机の上でもう一度本をひろげた。迷路を指で辿っては、幾度となく壁にぶつかり、なかなかゴールに近づくことができなかった。それでも、どうにかこうにかゴールにたどり着いたときは、その達成感に心が踊った。
「あら、いいタイムね。じゃあ、とっておきの一冊を……」
お婆さんが本棚から取り出してきた本には、“65歳から”と記されていた。中を見ると、迷路の分かれ道はより細かく、紙面いっぱいに入り乱れていた。僕はお茶を口に含みながら、道という道を目で、指でなぞった。しかし、どうやっても“通行禁止”や“スタートに戻る”のサイン、落とし穴の絵などに行き着いてしまう。
「苦戦してるわね」
「はぁ、かなり難しいです」
「そりゃ、65歳からの迷路だもの。でもね、絶対に出口はあるのよ。あなた、お歳はいくつ?」
「35です」
「まだまだ、若いわね。その歳の迷路なら、出口まであっという間よ」
「あるんですか?」
「えぇ、でも今日はここまで。もう閉店よ」
お婆さんは僕を扉へと送り出し、「また、いらっしゃい」と笑顔を浮かべた。
「あ、ちょっといいですか?お店の前の道、左へ歩いていくんですがすぐに出られます?」
「すぐよ。この道も、あなたの人生の迷路も」
「え?」
そう聞き返す僕を、お婆さんは「何でもないわ」と言い、手を小さく振った。
店を出て見上げると、道の向こうの夜空に北極星が光っていた。