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バーカウンター
大須ラビリンス
朗読:関戸哲也
  
空宙空地

 その店は大須赤門通りの商店街から奥に入った狭い路地裏にあった。建物に人一人ぐらい通れる階段があり、階段を昇った突き当たりに怪し気な店が構えていた。

 あの日、僕は錦で取引先の重役の接待があった。会社に入って5年目くらいの時期であり、今まで横並びだと思っていた同期が急に頭角を現し始める時期だった。僕は焦っていた。どんなに努力をしても、自分以外の同期はどんどん違う場所に行ってしまったからだ。もがけばもがくほど、同期の背中は遠くなり、まるで出口のない迷路を迷走していた。
 だから、あの日も何とかして取引先に気に入られようと、苦手な酒を浴びるように飲んでいた。自分が飲んだからって相手が喜ぶわけでもないのに。
 宴会は深夜まで続いて、気がつくと僕は大須商店街を歩いていた。終電が無くなり、無意識のうちに歩いて帰ろうとしていたのだ。
 大須商店街はまるで迷路のようだった。まだ酒が抜けていないせいもあり、商店街を通り過ぎて、大きな通りに出ようとしても、またいつの間にかシャッターが閉まった商店街を歩いていた。赤門通りを歩いていたと思ったら、大須本通を歩いていて、いっそのこと大須観音を目印に歩こうと思って歩いていたら、いつの間にか万松寺通りを歩いていた。兎に角、東西南北、ぐるぐるぐるぐると歩き続けた。文字通りの迷走……何だか今の自分みたいで、無性に笑えてきた。
 一時間ぐらい経ち、ようやく少し酒が抜けて来た頃、自販機でペットボトルの水を買った。水を飲みながら、冷静になると、ふと不思議な看板が目に入った。
『BAR大須ラビリンス』
ネオンが怪しい光を放っていて、吸い込まれるようにビルの中に入り、気がつくと、僕はいつの間にか、その店のカウンターに座っていた。
「ハイボール」
「……あ、ありがとうございます」
 店の中は誰も客がいなくて、マダムは暇そうに、タバコを吸いながら、ずっと携帯電話をいじっていた。僕に話かけることもなく、時々、自分でカクテルをつくって一人で飲んでいた。
 あの頃、僕はバーに行ったこともなく、どういう風に振る舞えばいいのか分からず、何だか気まずくなって帰ろうとした。すると、そんな空気を読んだのか、マダムが口を開いた。
「別にいいのよ。無理しないでいいから。お客さんのお好きにどうぞ」
 その言葉に何だか救われた気がした。僕は再び腰をおろしてハイボールをおかわりした。しばらくは一人で飲んでいたが、いつの間にか僕は会社の愚痴や将来への漠然とした不安などをポツポツと喋り始めた。マダムは「そう」とか「ふーん」とか「なるほどね」といった相づちしか打たなかったが、話を聞いてくれるだけで、僕は凄く安心した。これまでの緊張感から解放されたせいか、酒癖のせいか分からないけど、僕はいつの間にか泣いていた。そんな僕を見て、今まで黙っていたマダムは一言だけアドバイスをくれた。
「大丈夫だよ、あんたいい男だから。大丈夫」

 大須ラビリンスに行ったのは、後にも先にもあの時、一度だけだった。何度か行こうと思いつつも、日々の仕事に追われて、東京に転勤になってからはこの店のことを思い出すこともなくなった。
 マダムが死んだと聞いたのは、つい数日前のことだった。マダムは僕があの時に置いていった名刺を丁寧に保存してくれていて、彼女の息子さんがわざわざ連絡してくれたのだ。
 僕は20年ぶりに大須商店街を訪れた。周りにはパソコンやアニメショップが多く、昔の光景とは一変していたけど、雑居ビルの路地裏にある、かつて大須ラビリンスがあった場所だけはどこか時間が止まっていた。
 あれから20年、僕は、少しは「いい男」になったのだろうか?
 仕事や恋愛など色々な経験をした。でも、正直今も、僕はまだ迷路の中にいるような気がしている。仕事の問題は相変わらず尽きないし、家庭を持ったことから、また別の悩みも山積みだ。
 たぶん、一生悩みは続く。でも、それでもいい。マダムの「大丈夫」という言葉が脳裏に蘇る。そう、大丈夫だ。今まで何とかやってこれたのだ。これからも、きっと、何とかなる。

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