その名はマトリョーシカ
あれは昭和の終わりの出来事だった。
まだ、ドイツは東と西に分かれていたし、ロシアはソビエト連邦という国の一部であった。
私はある会社に勤めていた。経理課で事務仕事をしていて、密かに営業のイケメンに思いを寄せていたのであった。
遠くからちらりと姿を見るだけで、気持ちはいつもときめいていた。
ある日、彼が海外出張することになった。行き先はなんとソビエト連邦のロシア。とても恐ろしい国だと思っていた。まさしくおそロシア。
私は不安に思い、彼にお守りを渡した。お守りは『交通安全』のもので、はたして効果はあるのか?
疑問ではあったが、彼は小刻みに震え、笑いをこらえながら、
「ありがとう」
と言ってくれた。
わずか二週間ほどではあったが、彼の姿の見えない会社生活は寂しく感じていた。
彼がロシアから帰国した後、なんと、私に赤い花模様の包みを渡してくれた。
「お土産だよ」
「えっ! 私に?」
「そうだよ。お守りありがとうね」
私は天にも昇る気持ちで、包みを家に持ち帰った。丁寧に包装紙をめくり、箱をそーっとあけた。中から派手なこけしのような人形が出てきた。それは日本ではほとんど見ることのない色合いで、私には少し不気味に見えたのであった。
もしかしたら、もしかして……。
私はこういうものが好きと、彼から思われているのだろうか?
徐々に彼への思いが冷めていった。しばらくすると彼の姿を見ても、ときめくことはなくなった。
派手な不気味な人形は、家の仏壇の横に箱ごとしまった。その後一度も出すことはなかった。
昭和が終わり、平成も終わり、元号は令和となった。ドイツは統合され一つの国になり、ソビエト連邦は崩壊した。
私はとっくに会社を辞めていて、あの営業のイケメンがどうなったかは全く知らない。
ある日、テレビの旅番組を見ていた。なんと、行き先はロシア。すると、画面にあの派手で不気味な人形が現れた。
「あっ! あれは!」
思わず独り言を言った。
テレビの中の旅人が人形をつまんで、上下に引っ張った。中から全く同じ少し小さい人形が出てきた。同じことを数回繰り返し、人形は全部で七体になったのを見た。
口が開きっぱなしになった。
おどろいた。
知らなかった。
あの人形あんなからくりがあったんだ。
後日実家に行き、確かめた。今も仏壇の横に、箱のまましまってあった。まあ、しまったというよりも、放置してあったのだが。
日にも当たらずにいたからだろう、箱から出てきた人形はつややかで輝いていた。まるで時が止まっているようであった。
私は旅番組と同じように、人形をつまんで上下に引っ張ってみた。やはり中から全く同じ少し小さい人形が出てきた。人形は全部で七体になり、一番小さいものは私の小指くらいの大きさであった。
一番小さい人形と一緒に、小さな紙が折り畳まれて入っていた。開いてみた。
○○さんへ
いつも楽しそうだね。
お守りはきっと効果あったよ。
よかったら、今度一緒にご飯に行きませんか?
いつにしますか?
営業 △△
と、書かれていた。
えっ、まさか!
彼も私に……?
人形の名はマトリョーシカ。旅番組で知った。
マトリョーシカのおかげで、あの時の彼の気持ちを知ることとなった。
しかし、時は移りすぎた。もうあの時間は取り戻せない。
私は三十年以上、何も知らなかった。
あの営業のイケメンは、今どこでどうしているのだろうか?
とっくに結婚してもう、お父さんだろうな。
出世して社長になったかな。
想像してみた。その横に私がいることはなかった。
すてきなお話ありがとうございました。心が温まる気がしました。
読んでいただき、さらにコメントまでありがとうございます。
嬉しかったです。 長生直子