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閉店したテナント
忘れたくない場所
朗読:小野寺マリー
  
優しい劇団

 わざわざ遠くまで自転車を走らせてここまで来たけど、劣化して剥がれた紫色の壁は明らかに古臭くて、記憶のそれとはあまり一致しなかった。店の入り口に大きく「ご愛顧ありがとうございました」と派手な文字が飾ってある。最後に後悔がないようしっかり見て回っておかないと、と思って、自動ドアを足早に通り抜けた。
 どこの通路を歩いていても、私と母、父が歩く人影が容易に思い浮かべられることに、記憶力の低い私は驚いていた。ちょっと寂しいな、ぐらいだと思ってたのに、私の頭にはここで過ごした時間が、思った以上に蓄積されているらしかった。
 今日はおそばにする? ラーメン? なんでもいいよ。あきちゃんの好きな方でいいよ。えーどうしようかなぁ…
 今日の映画見に来てよかったね! ここもよくてさ! あ、ちょっとここ寄ってもいい? ちょっとだけだよ…
 どこを見ていても記憶の中から色んな声が再生される。出現しては消える。もうすっかり閑散としてさびれた道は、どう見てもあの頃のままじゃないのに。緩みかけた涙腺を引き締めつつ、壁だらけの道を一人で黙々と進んだ。
 まただ。ここも閉店している。思い出などお構いなしに、白い壁はその場所を覆っていて、薄れた記憶の邪魔をしている。いつからないんだろう。喫茶店も、ラーメン屋も、雑貨屋も。そんなことを少しも知らないなんて薄情だなと思う。なのに、いざ目の前にして、こんなにどうしようもない気持ちになっている。切なさでも悔しさでもない、やりきれないような感情の塊が体の中でぐるぐると動き回って、吐き出すこともできなくて消えない。なんでこんなところに来たんだろう。どこに行っても「今さら」と、そう言われている気がする。もう大体見たし帰ろう。もう何にもなかった。だって何年も来ていない、なくなって当然だ。懐かしむような温かい気持ちでここまで来たはずだったのに、そんなのどうでもいい気がしてくる。踵を返しエスカレーターに乗ったところで、唯一人が賑わっている食品売り場が視界に入った。せっかく来たんだから何か甘いものでも買って帰ろう。あそこにはケーキ屋さんもあったはずだし。もう何を見てもいい気分でいられないのは分かっているのに、どうしてもそこに引き寄せられてしまった。
 見慣れた小さな陳列棚の前で、ケーキを選ぶふりをする。もうとっくに売れ残りしか置いてなくて選ぶまでもないが、さっさと買ってその場を去れるほどの余裕はなかった。何度もここで誕生日ケーキを買った。くだらない雑談ばかり思い出す。またこんなことで私は簡単に泣きそうになっている。我慢できているうちに出よう。暇そうな店員に見つめられながら、私は抹茶のケーキを一つ買ってまた歩き出す。もう帰ろう。思い残すことなんてもうない。ケーキが冷たいうちに家に帰らないといけないから。そう思って自動ドアをくぐろうとして、それなのに、私の足はその手前でピタリと止まってしまう。なんで。苛立ちがくちびるを硬くする。
 右側にはデコレーションされた大きな壁。その向こうに喫茶店があるはずだった。なんでこんな壁があるんだ。こんなもの、壊してやりたい。もちろんそんなことはできなくて睨みつけるだけになる。何がそんなに私を引き留めているのか、もはや自分でも分からない。でも、私の頭の中を駆け巡る映像は止められない。軽快に笑う話し声。穏やかに相槌を打つ笑顔。見たはずもない私と両親の姿が、いくつも現れては、私の中の柔らかい部分を占領していった。辛いだろう痛いだろうと、私に心臓の場所を強く意識させる。
 今はこんな気持ちでいても、どうせ数年すれば何とも思わなくなるくせに。自分の都合のいい感傷が嫌になる。どうしてもここから離れがたい自分にも嫌気がさす。ここにいたって何にもすることはない。ぎゅっと目をつぶって、幸せそうに笑う三人の家族を、頭から無理やり追い出す。
 時は進んでいくから、ごめんね。
 長いまばたきのあとで、私はやっと一歩を踏み出すことができた。

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ヒューマンドラマ

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