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定食屋の大将

  • 2021年10月04日
エビフライの定食
定食屋の大将
朗読:橘朱里優しい劇団

 昔、私が伏見のOLだったころの話。休日に納屋橋あたりをぶらついていると、古さびた雑居ビルに見慣れない定食屋があるのを見つけた。看板には、安っぽい筆字で「笑華亭」と書かれている。私は、なんとなくこの店に入ってみることにした。週末に1人で近所を探検するのは、職場の人づきあいが苦手な私の、ささやかな気晴らしだ。

 「お、いらっしゃい!」
 店に入ると、狭い店内に客は私以外いない。少し不安になったが、とりあえずランチを頼もう。コロッケ定食、味噌カツ定食、えびふりゃ~定食……なんだか名前がかわいいので、私はえびふりゃ~定食を頼んだ。
 「あの、えびふりゃ~定食お願いします」
 「はいよ! お嬢ちゃん、ウチは結構量が多いけどどうする?」
 「あ、大丈夫です。食べ切ります」
 妙に嬉しそうに厨房を行き来する大将は、ダンスを踊っているみたいだ。窓から見える堀川をぼーっと眺めていると、
「はい、お待たせ」
と料理がきた。エビフライ、サラダ、みそ汁にご飯。そしてなぜか味噌カツも2切れ乗っている。みそ汁は名古屋らしい濃い赤味噌で、サラダにまで味噌がかかっているのには驚いたが、意外なほど美味しい。だが、何より美味しいのは味噌カツだ。どろっとした味噌がとても濃厚で、次に来たときは味噌カツ定食を頼もうと思った。無事完食して財布を取り出すと、
「お嬢ちゃん、お代はいらないよ」
と大将が言った。
 「え、なんでですか⁉」
 「お嬢ちゃんはお客さん第1号だから、サービス。この店、今日オープンなんだよ」
 全然気が付かなかった。驚いてお礼を言うと、大将は楽しそうに笑って、店先まで来て私を見送ってくれた。また絶対に来ようと思った。

 しかし、それから仕事が忙しくなり、休日は疲れを取るので一杯になった。3か月経ってようやく笑華亭に足を運ぶと、店内は薄暗く人気がない。入口に貼り紙があるのを見つけた。
 「閉店しました。短い間でしたがありがとうございました。店主」
 私は、少し泣きそうになってしまった。

 2年後。仕事終わりに駐車場へ行くと、管理人室の人と目が合った。それが偶然だったのか、何らかの必然だったのか、私は飛び上がるほど驚いた。
 「えっ、笑華亭の大将ですか……?」
 「あれ、……お客さん第1号?」
 大将は目を見張り、快活に笑った。当時に比べると歳を取って少し痩せているが、紛れもなく笑華亭の大将だ。
 「私を覚えてるんですか? 1度しかお店に行ってないのに」
そう聞くと、大将は顔をしわくちゃにして微笑んだ。
 「あの日ね、開店してから30分、誰も店に来なかったんだよ。開店前にいっぱいビラ配ったのにさ、地味な定食屋なんて流行らないのかなって。そしたらさ、若い女の子が急に1人で入ってくるじゃない。驚いたね。エビフライ定食を『えびふりゃ~定食』なんて大真面目に読んでくれてさ、美味しそうに頬っぺた膨らまして、ぺろっと平らげちゃった。俺、最初の客がこの子で良かったなって思ったんだよ」
 そんな風に思われていたのか。なんだか私は可笑しいような、気恥ずかしいような気分がして、ふふっと笑ってしまった。
 「もう1度行きたかったなあ。あの味噌カツ、最高でした。もう料理はしないんですか?」
 「やっぱり、じじいの店は流行らんよ。今は俺の味噌カツはね、孫が来るとき専用。お店はもうやらないけど、俺の料理はまだ活きてるよ」
 楽しそうに話す大将を見て、よかったあ、と心から思った。思うと同時に、心の奥からぐっと何かがこみあげてきて、大粒の涙がぼろぼろとこぼれてきた。
 「あれ? ごめんなさい、何泣いてるんだろ私」
 そんな私を見て、大将は慌てるでもなく、優しく微笑みながら言った。
「笑華ってのはね、俺の妻の名前なんだよ。もう何年も前に死んじゃったけど、いつか店を開くぞって約束してたんだ。俺は今満足。お嬢ちゃんとここで会えたのも、何かの縁だね」

 それから2年。私はOLを辞めて、自分で出版社を立ち上げた。まだ軌道には乗っていないし、うまくいくかもわからない。でも、やれるだけやってみようと、もし失敗しても笑って乗り越えてやろうと、そう思った。

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ヒューマンドラマ

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