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君とふたりの映画館

  • 2021年2月07日
スーパーのお弁当

君とふたりの映画館

桐生梓

朗読:松本喜臣(劇団シアター・ウィークエンド)

 「どうしていまさら映画なんか観に行かなきゃいけないの?」
 今日も見舞いに行った私に、妻はそう言った。
 「だから、言っただろう。スーパーの福引きで当たったんだよ」
 「それにしたって。体調も良くないし」
「大丈夫。外泊の許可は下りている。お医者さんも太鼓判を押してくれているし、映画館へは車椅子のまま入れるんだから。何より一等賞に当たったんだよ。無駄にしたくないだろう?」
 私は、主婦だったら聞き逃せない一言を妻にぶつけてみた。
 「だったら、行ってもいいけど」
 ようやく妻は首を縦に振った。
 「で、どんな映画なの? どうせ、いま流行りのアクションものじゃないの? 私、最近の映画にはついて行けないわ」
 それでもやはり、乗り気ではない。
 「つまらなかったら途中でやめればいいさ。どうせただなんだから」
 プランはこうだ。その映画を上映する映画館を二人で貸し切り。ホテルの宿泊、食事付き。これを逃す手があるだろうか。ただ、私は妻に、映画のタイトルを忘れてしまったと言った。
 「なんだ、どんな映画かわからないんじゃ、どうしようもないじゃないの」
 それでも、いったん首肯した手前、妻はもう引き下がれなかった。
 正直なところ、妻は洋画がまったくだめというわけではなかった。結婚して数年の頃、たまたまもらった映画鑑賞券で、当時新作だった『サウンド・オブ・ミュージック』を二人で観に行ったのだ。最初はやはり乗り気でなかった妻だが、観たら意外に気に入り、その後、コツコツと貯めたへそくりでサウンドトラックのレコードを買い、レコードプレーヤーをまわしてよく聴くようになった。そのうちに、歌詞カードを見ながら一緒に歌うようになり、炊事や洗濯の時も鼻歌のように歌っていた。だから、『サウンド・オブ・ミュージック』は二人の想い出の映画だったのだ。
 そして当日。
 エレベーターが開き、映画館へと通じる通路を車椅子を押していく私の目に、劇場の前に大きく掲げられた看板が飛び込んできた。それとともに妻がハッと息を呑む音が聞こえた。「心に広がる青春の輝き」。あの頃はこんなキャッチフレーズで鳴り物入りでロードショー公開されたこの映画が、「デジタルリマスターで今蘇る」と添え書きされていま数十年の月日を経て私たちの前に再び現れた瞬間だった。
 「繰り返すが二人だけの貸し切りだ。気分が悪ければいつでも出れば良い。それに、一緒に歌ったってかまわないんだよ。そうだ、一緒に歌おうじゃないか」
 妻の、骨ばかりが目立った手が、車椅子を押す私の手の上に伸びてきて止まった。その手は微かに震えていた。
 病院に送り届けた妻は、まだ楽しそうに「エーデルワイス」を口ずさんでいた。上気した頬を見せる妻に病院のスタッフたちは、見違えるようだと驚いていた。今度見舞いに行くときは、妻が以前に聞いていた『サウンド・オブ・ミュージック』のカセットテープを探して持っていくつもりだ。いや、今はCDってものが出ているんだったかな。今度探してみよう。
 夕食時を迎えたスーパーは、まだ結構混み合っていた。今日は私の好きな鮭弁当にしよう。450円。ふと、私は正月にデパートの福袋のチラシを見た時のことを思い出した。『サウンド・オブ・ミュージック』映画館貸し切り、ホテル宿泊、食事付き。三十万円也。妻に笑顔を取り戻せないかと思わず走ったデパートで、何人かの希望者の中からこの福袋を射止めた時の喜びと、正直言ってとまどい。年金の五ヶ月分だった。国民年金と貯金を取り崩してつましく生きている私にとって大変な出費であることは言うまでもない。それでも私は賭けてみた。映画館で、上気した顔で画面に見入る妻、一緒に歌を口ずさむ妻をこの目で見たとき、決して高くない出費だったと確信することが出来た。
 ハンバーグ弁当か。それほど好きでもないが……。私は鮭弁当を元に戻すと、賞味期限間近で半額シールが貼ってあるハンバーグ弁当を手に持っていそいそとレジに向かった。

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