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鉛筆を持つ手
先生の夢

「私は昨日日本語を勉強する」これだとね、まだ文として不十分なんだ。最後のところを、「勉強した」に変えてみようか。」
何度教えても、同じミスをする。先週と比べて、この生徒はどれだけ成長したのだろうか。日本語は世界で難易度ランキング上位に値するだけあって外国人にとっては難しいようだ。
私は、様々な事情があって日本にやってきたばかりの外国人を、週に2度図書館の自習室で教え続けている。中学生の男の子や、高校生の女の子。そんな彼らは、どうしてここにやってきて、何のために日本語を学ぶのか。どこに向かっているのか。
「じゃあまた、先週と同じカタカナの復習から始めるね。」
たった一本の鉛筆と、ぎっしりと文字が敷き詰められたノートを一冊持ってやってくる少女の目は、私よりもキラキラしていた。
「先生、あのね。私先生の授業好き。」
「え、ありがとう。」 
拙い日本語でも、伝えようとする姿勢があれば、その思いは目の前にいる人に伝わる。そんな事を教えてくれるような彼女の真っ直ぐな視線に、思わず私は目を逸らしたくなった。
「先生は、私が分かるまで何回も教えてくれる。すごく分かりやすい。だから、嬉しいです。」
「そんな事ないよ、まだまだだよ私なんて。」
そう、私なんて「まだまだ」なんだ。ここでは「先生」としてやっているけれど、私は自分の将来すらも不安だった。週に2回のこのアルバイトは息抜きのようなもので、あとは学校と家を行ったり来たりするつまらない日々。なんのために大学で文学を学んでいるのかも、なんのためにここのアルバイトを選んだのかも、そんなことも忘れてしまっていた。
「私、お金も貯めなくちゃいけないから、これからあまり来れないかもしれないんです。」
「え?」
「バイトしているんです。日本でたくさん働いて、フィリピンにいる家族を支えたい。そのために、日本語を覚えたい。」
そんな彼女の一生懸命な日本語は、私の心にストンと落ちた。私は、そんな彼女の訴えになんと言ったのかは覚えていない。だけど、なんとなく「うん、そうなんだ。」と他人事のように呟いた。そんな気がした。
外はいつしか真っ暗になって、季節はもうすでに冬に移り変わっている事を知る。
「もう暗くなってきたから、最後に今日の単語だけチェックしてから帰ろうか。」
「先生、あの。」
「ん?」
「私、キャビンアテンダントになりたいんです。日本だけでなく、世界中飛び回れるキャビンアテンダントに、私はなります。」
「そんな・・・」
みんなが憧れる職業。カタカナを覚える事ですら精一杯なその少女は、力強く私に夢を語った。 
「なれるよ。なりたいって気持ちがあれば、なれるんだよ。」
人に言うのはいつも簡単だ。半分無責任にもとれる私の言葉は、もう2人きりしか残っていない部屋にボワンと響いた。
「ねえ先生?」
「ん?どうした?」
「先生の夢って何?」
「へ…」
私の、夢。そんなもの、ここ数年考えてもいない事だった。純粋な彼女の疑問に私は戸惑った。私の、夢。それは心の奥に、思い出さないように封じ込めていたものだった。君のキラキラした目が私をじっと見つめる。
「あのね、私は小説家になりたいんだ。本を読むのも大好きだし、だから・・・」
「じゃあ、書いてみればいいじゃないですか?書いて、書いて、それを評価する人はきっと沢山います。可能性あります。」
「可能性って・・・」
「私が一番好きな日本語です。」
これまで、夢は夢で終わらせた方が幸せだと思っていた。やってみた結果が、どうせダメなら、最初から挑戦しない方が傷つかないで済むから。
だけど、私は今日ようやく生きている意味を知った。一生懸命に日本語を勉強して、拙い言葉でも伝えようと努力して、将来の夢まで怖じけずに語れる彼らは、私よりもうんとかっこいい。
「教える立場なのに、今日は大切な事を教えられちゃった気がするね。」
私はそう言って小さく笑った。
外に出ると、今年最初の雪が降っていた。
彼女は別れ際に
「先生も、なりたいなら、なれるよ。」
それだけ言って傘もささずに走っていった。それが彼女を見た最後の姿だった。

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