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人魚姫の居場所

  • 2021年1月31日

人魚姫の居場所

中村朱里

 海に行きたいの、と彼女が言った時、僕はぎくりと身体が強張るのを感じた。なんで?と問いかけても、彼女は「とにかく行きたいから行きたいの。それじゃだめ?」なんて、逆に問い返してくる。解った。行こう。そう答えることしかできなかった。
人魚である彼女の声には、誰も逆らえない。恋人であるはずの僕相手に、今までの彼女はそういう不思議な力を使おうとはしなかったけれど、なぜか今はそういう強制力に満ちた何かを感じた。だから僕は彼女と一緒に、地下鉄に乗った。
 ガラガラの車内に並んで座る。するりと手を繋がれて、その冷たさにまたぎくりとする。彼女の肌の冷たさなんて、誰よりもよく知っているつもりだったのに、たった今その冷たさを初めて知ったかのような心地になる。海水と同じ温度だと思った。
 地下鉄名古屋港駅で僕らは下車した。地上に出ると、冷たい風が吹き荒ぶこの季節、太陽はとっくに沈んでいて、クリスマスに向けたイルミネーションでちかちかと光があちこちで瞬いていた。潮風に長い髪を遊ばせつつ、彼女は弾んだ声で「綺麗ね」なんてはしゃぎながら、青みがかった瞳を、イルミネーションに負けず劣らずきらきらと輝かせている。君の方が綺麗だよ、なんて言える訳がない。もしも言えるのなら、「海に行きたい」と言い出した彼女の望みをこうやって叶える真似なんてしなかった。
 人魚の女の子と付き合うなんて長続きしない。そう、彼女と付き合い始めたばかりの頃に友人に言われたことを思い出す。人魚と人間は違う。習慣も、文化も、寿命も、生きるべき場所も。それでも僕は彼女を選んだ。海の人魚と地上の人間の交換留学制度を利用して大学にやってきた彼女のサポーターという役割は、奨学金目当ての僕にとっては願ってもない制度で、彼女と知り合ったのはそれがきっかけだった。コメダ珈琲店の広いソファー席、大須のアーケード街、スガキヤのラーメン。生まれも育ちも名古屋の僕が見慣れ切ったものに、彼女はいちいち興奮しながら「すごいね!」と笑ってくれた。気付けば次は何を紹介しようかと、そればかり考えるようになっていた僕は、きっともうそういう風になるよりもずっと前から、彼女でなくては駄目になっていた。
 そんな僕が唯一彼女を連れてこなかった場所。それがこの名古屋港だ。全国的にも有名であるらしい名古屋港水族館は、生まれも育ちも海であるのだという人魚の彼女にとっては今更のものだろうから、なんていうもっともらしい理由を付けていたけれど、本音はただ単純に、彼女に海を思い出させたくなかったからだ。このままずっと名古屋で、地上で、僕と暮らしてほしかったからだ。けれどきっともう潮時だ。海だけに、なんて親父ギャグが頭を過ぎり、あまりのくだらなさに思わず笑うと、彼女がきょとんとした顔で僕を見上げてきた。
「どうしたの?」
「なんでもない」
「そう。ところでさ」
「なに?」
「地上に来た人魚が、地上に残るための条件って知ってる?」
 唐突な質問に、僕は息を飲んだ。何が言いたいのだろう。彼女はどこか期待しているような、縋るような、それでいて悪戯(いたずら)をしかけようとする子供のような、どう表現すべきなのかわかりかねる光をその青みがかった瞳に宿して僕をじいと見上げ続ける。絶滅を危惧されている種族である人魚が地上で暮らすことを許されているのは一年間。彼女が地上にいられるのは、あと一か月。人魚が、彼女が、地上に、僕のそばに残ってくれるなら。そこまで思ってから、ああ、とやっと僕は納得する。海に行きたいと、このタイミングで言ってくれた彼女の勇気が、こんなにも嬉しく、愛しい。そして、肝心なところで出遅れた自分の不甲斐なさが恥ずかしくなる。
 僕は両手で彼女の手をぎゅうと握った。彼女が覚悟を決めたように僕をじいとまた見つめる。
「結婚してください」
 ようやく言えた台詞に、「やっと言ってくれた」と彼女は青白い肌を薄紅色に染めて照れたように笑ってくれた。
 そして人魚姫は、海に帰ることも泡になって消えることもなく、王子様ではないただの人間の男の隣で、幸せに暮らすことになったのだそうだ。

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