名刺とわらびもち
新しい就職先が決まった。その会社は名古屋の実家から通えるところで、仲田美咲は荷物と共に帰ってきていた。
窓のそばの街路樹では、セミが身をよじるようにして鳴いている。地下鉄の駅まで徒歩十分の住宅街。高校までを過ごした自室で、段ボールをまとめ終えた美咲は、大きく息をついた。
春から、どこか現実感のない日々だった。内定していた東京の飲食関係の会社は、入社延期ののち、内定の取り消しとなった。別の会社を紹介すると言われ、それが名古屋の福祉系の会社だった。
美咲は机の上の一枚の名刺を手に取る。そこに印刷されているのは、人偏のない「中田」だ。先日、入社の書類とともに送られてきた気の早い一箱の名刺。その名前が間違っていることにはすぐに気づいたが、なんとなく放置してしまっている。
「わらびーもち、わらびーもち。つめたーくて、おいしーいよ」
美咲は頭を上げた。ひび割れたスピーカーの声、東京では全く聞かなかった、わらびもちの移動販売だ。
夏になると回ってくるそれを、美咲は食べたことがない。時計を見て迷ったが、スマホと財布を掴んで部屋を出る。玄関でマスクをつけていると、母が顔を出して、もうすぐお昼よ、と言った。美咲は生返事をして、玄関ドアを開けた。
似たような家並みが延々と続く。移動販売車を見つけられないまま、美咲はゆらめくような炎天下をひたすら歩いていた。
帽子も日傘もない、危険なほどに暑いのに、足が止まらない。どのくらい歩いただろうか。近づいたり遠くなったりしていたスピーカーの声が、いつの間にか聞こえなくなっていた。
美咲は立ち止まってあたりを見回した。でたらめに歩いたせいで、現在地が分からない。スマホの地図アプリを立ち上げようとするが、エラーが表示される。電波が圏外になっている。
迷子、という言葉が脳裏をかすめた時、突然あのメロディーが聞こえてきた。とても近い。少し先の道の角から、白い軽トラがゆっくりと姿を現した。
荷台ののれんには、「わらびもち」と書かれている。軽トラの運転席から降りてきたおじさんは、大きな麦わら帽子を目深に被っていた。
「一つください」
美咲は声をかける。しかしおじさんは、振り返った途端に固まってしまった。沈黙が落ちる。
「……お嬢さん、どこからみえた」
「近所、ですけど。ちょっと迷ってしまって」
唐突な質問に、美咲は戸惑いつつ答える。
「その紙は?」
手元を指差される。財布の札入れから紙片が飛び出ていた。抜き出してみると、先ほどの名刺だった。
「あっ、これ名刺、私のです。あの、字が間違っていて、ほんとは人偏のある仲田なんですけど……」
初対面でなぜこんなことをと思いつつ、美咲は少し早口で説明する。こめかみを汗が流れる。頭があつい、同時に背筋に寒気のようなものも覚える。
「ヒトが抜けた名刺か、なるほど」
美咲の説明に、おじさんは納得したように呟いた。そして荷台に向かい、発泡スチロールの箱から輪ゴムで留めた包みを取り出す。
「サービスだよ。引き返して、七つ目の角を左だ。駅の裏に出る。こんなところをウロウロしてちゃいかんよ」
「あ、ありがとうございます」
ぽんと渡され、美咲は反射的にお礼を言った。おじさんはさっさと運転席に戻り、軽トラのエンジンをかけた。そして窓を下げて、口元をゆがめる。一瞬遅れて、笑顔だと美咲は気づいた。
「頑張りゃあ」
軽トラは発進し、角を曲がって見えなくなった。
おじさんから聞いた通りに歩けば、すぐに駅裏の大通りに出た。マスク姿の人々が行き交っている。
手の中でスマホが震え始めて、美咲は道の脇に寄った。
「あ、仲田さんの携帯ですか? 私、総務のものですが、先日お送りした名刺が……」
相槌を打ちながら、美咲はふと笑みを浮かべた。おじさんの不格好な笑顔がおかしかった。そしてなにか、夢から醒めたような気分だった。
帰ったらわらびもちを食べよう。そして新しい名刺が来たら、一枚ずつ両親に渡して、仕事を頑張ると伝えよう。
青い空に、くっきりとした輪郭の入道雲が浮かんでいる。