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剣道
垂れネームをつけるまで
朗読:宮田頌子
  
オレンヂスタ

 垂れネームを忘れた。まずい。剣道部に入ってから今まで一度も忘れ物をしたことがなかったのに、最後の最後、大事な大会の日に忘れるなんて……。よりによって、替えがきかないやつを。垂れネームを洗濯機に放る瞬間がスローモーションで鮮明に甦ってくる。そういえば昨日、晴れ舞台に備えてってことで洗濯機に入れたんだった。馬鹿野郎! 自分。防具袋を覗いたまま硬直してしまった体を動かすことができない。顧問に言う? いや、お母さんに電話して仕事を予定より早く抜けてもらって……ダメだ、携帯は皆の分後輩が集めてるんだった。あ、後輩を買収する? 無理無理。簡単に買収できるほど人望なかったわ。じゃあやっぱお母さんに持ってきてもらうしかないか。にしても顧問には言わなきゃならない。でもそんなの絶対にやめた方がいい。準備不足って𠮟られて、試合に出してもらえなくなる。引退試合がそれじゃあ情けなさすぎて泣けてくる。どうしようか。公衆電話は会場にあるんだっけ? あでもお母さん、知らない番号からきたのは取らない可能性が高い。財布に十円玉があるかも怪しい。まあそれは敦子に借りればなんとかなるとして。いや、なんとかならんわ。財布も回収されてた。ちくしょう。あ! 敦子のお母さん今日早くから見に来るって言ってた! もう着いて──
パッと顔を上げて辺りを見回す。少しの希望にやっと首だけ動かせた。
「ときちゃん? どした?」知らぬ間に胴までつけ終わっていた敦子が話しかけてきた。
「敦子のお母さんって今どこに」
「それがさー朝、弟が熱出しちゃって。来れなさそうなんだよね。最後なのにねー」
肩から力が抜けたとき、「ガクン」という音が本当にするのだと実感した。
「ときちゃんのお母さんは二試合目から見に来るんだよね? いいなー」
全然良くない。本当に、全くもって良くなんかない。
「てかときちゃん! 早く防具つけないとアップ始まっちゃうよ!」
頭を抱えた。文字通りに。前髪の隙間から顧問が見えた。目が合う。こちらをジッと見て近づいてくる。どうしようどうしようどうしよう……。
──「ときの! はよ起きないと授業始まるよ!」
お母さんの声にハッと目を開く。目の前に待ち望んでいたお母さんがいる。
「垂れネーム忘れた!」
お母さんは眉を寄せ「何言ってんの今日からオンライン授業でしょ? 準備しなきゃ。はい起きて」と布団をはがしてリビングへ下りていった。
頭を掴んだままの両手に変に力がこもっている。背中には冷や汗。……夢だったのか。そうだ。引退試合はコロナの影響で中止、剣道部はそのまま引退したんだった。
高校でも剣道部に入るつもりだけど、いつになったら大会ができるようになるのかも分からない今、竹刀すら握らなくなった。やっても意味がない。でも、何かを忘れている気がする。垂れネームを忘れてるみたいに、大事な何かを置いてきてしまった感じ。
「二度寝はダメよー」階段からお母さんの声が響いてくる。仕方なくベットから足を出し、階段を下りていく。足が重くて思うように進まない。すると、外から大きな声が聞こえた。誰かが歌ってる? 甘い歌ではない。声高らかに歌っているけど、誰かへの応援歌でもなさそう。これ、シャウトだ。心の内を叫んでる。歌詞を見ないと何言ってるのか分からないけど、確かにそこに誰かが存在していることを証明している。生きてるんだぞ、と聞こえた気がした。その瞬間、足が軽くなった。
「お母さん、この声誰だろう」
「あー鈴木さん家の娘さん、音楽活動してるんだって。朝早くから元気ね」
今、歌をどんなに頑張ってもお披露目の場所は少ない。特にああいうようなシャウト系がSNSで発信していくのは難しそうだ。でも、頑張ってる。今日も必死に頑張っているんだ。
ご飯を食べて初めてのオンライン授業を乗り越えたら、素振りをしてみようか。誰にも見てもらえないし、結果も出ないけど。大会だけのためにやるんじゃなくて、好きだからという思い一つでやってみよう。
今は、垂れネームをつけなくていい剣道をしよう。それで、時が来たら垂れネームをつけて、私を証明しよう。

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ヒューマンドラマ

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