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秀之助の覚悟
朗読:原田邦英
  
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 天保六年、十一代将軍家斉の治世下。年の瀬も押し迫った師走の昼下がりのことだった。
 美濃国高須三万石、松平摂津守江戸屋敷内の剣術道場では、少年剣士たちの稽古が行われていた。その中の一人、面長で凜々しい風貌の少年が袋竹刀を構えている。三人目の相手との立ち合いであったが、呼吸を乱すこともなく、一歩一歩、相手との間合いをつめていった。その少年の名は秀之助。藩主松平摂津守義建の嫡男であり、年が明けると数え年十三になる。
「えい!」
 鋭いかけ声とともに秀之助の袋竹刀が相手の額の前でとまった。
「そこまで!」
 道場内に大声が響いた。
「叔父上!」
 道場の入り口に立っていたのは徳川御三家の一つ水戸徳川家の当主、斉昭。秀之助の母は、斉昭の姉だった。
「お見事! さすが摂津守自慢の息子じゃ。わしの息子もお主のように育てたいものだ」
 高須藩江戸屋敷は四谷にあり、小石川にある水戸藩江戸屋敷からほど近く、斉昭はしばしば高須家を訪れていた。烈公と称された激情家の斉昭と違い、義理の兄弟の義建は温和な性格であり、斉昭の良き話し相手であった。
「異国船が次々とあらわれているこの国難時、幕閣どもは何をしておる!」
 普段は怒ったような顔をして、憚ることなく大声で公儀への批判を口にしている叔父であったが、今日はいつもと違って機嫌が良い様子。先日、この屋敷で生まれた秀之助の弟の誕生祝いで訪れていたのだ。
「摂津守、お主に似て賢そうな顔をしている。まことにめでたい!」
 叔父は、赤子を抱きかかえながら話し続けた。
「高須家は石高三万石の小藩ではあるが、御三家筆頭尾張徳川家の流れを汲む名門。優秀な男子は、養子に引く手あまたじゃ。それにくらべて尾張家は・・・」
 父、義建とともにその場にいた秀之助は、叔父がこれから話そうとしていることがわかっていた。尾張藩は、三十年以上にわたって代々、幕府から養子を押しつけられていた。御三家筆頭としての気概を失い、幕閣の顔色だけをうかがっている尾張藩重臣たちに対して叔父は憤っていたのだ。
「高須家は、尾張家の世継ぎが途絶えた時は、その後を継げる家柄。しかも、秀之助という優秀な男子がいる。それにもかかわらず!」
 斉昭の声は次第に大きくなってきた。叔父は話しているうちに自分の感情を抑えることができなくなったのだ。
「幕閣は上様のお子を尾張家の養子として押しつけてきた! 尾張の重臣どもは何を考えて・・・」
 その時、赤子の泣き声が部屋の中に響いた。
「乳が恋しくなったかな?」
 叔父は厳めしい顔を少しほころばせてそう言ったが、赤子の泣き声はより一層を大きくなった。秀之助は、叔父のことが怖くて弟は泣いていると確信していた。
「長居をしたようだ。わしはこれで」
 帰り際、叔父は秀之助に話しかけてきた。
「お主は三万石の藩主に収まる器ではない。六十二万石の尾張家藩主の器だ。文武の修業に励めよ」
「はい!」
 叔父、斉昭の言葉に、秀之助は全身が引き締まる思いをした。ふと、横にいる父を見てみると、普段と変わらず温和な眼差しで佇んでいた。
 叔父がいなくなった屋敷は、嵐の去ったような静けさであった。その夜、秀之助は屋敷の書庫に入り、一冊の書物を手にした。それは『温知政要』。尾張家七代藩主宗春の著した書物であった。書物を読み進めて行くうちに、秀之助の胸に熱いものがこみ上げてきた。その行間から、領民を慈しむ宗春の思いが伝わってきたからだ。
 しかし、名君とうたわれた宗春は八代将軍吉宗と対立し、隠居謹慎に処せられた。それ以降、尾張家は苦難の道を歩むことになる。
「何も考えず、今は文武の修業に励め」
 秀之助の横に、義建が立っていた。
「父上・・・」
「いつか、その修業が役に立つ時がある。必ず」
 父の眼の奥底が鋭く光っていることに秀之助は気がついた。
 その時、秀之助は夢にも思っていなかった。それから三十数年後に、十四代尾張藩主となった自分が、会津藩主となった弟と明治維新をめぐって対立することになるとは。

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歴史・時代

コメント

  • 学童保育指導員研修を名古屋金山で受けた者です。
    歴史に興味を持ち始めた昨今、自然と朗読の内容が入ってきて、心地よい時間を持つ事ができました。ありがとうございます。

    祖父江昌子 返信

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