Voicy
Voicy
Voicy
Image is not available
Image is not available
Image is not available
Image is not available
Image is not available
Image is not available
Image is not available
Image is not available
Slider
エビフライの定食
定食屋の大将
朗読:橘朱里
  
優しい劇団

 昔、私が伏見のOLだったころの話。休日に納屋橋あたりをぶらついていると、古さびた雑居ビルに見慣れない定食屋があるのを見つけた。看板には、安っぽい筆字で「笑華亭」と書かれている。私は、なんとなくこの店に入ってみることにした。週末に1人で近所を探検するのは、職場の人づきあいが苦手な私の、ささやかな気晴らしだ。

 「お、いらっしゃい!」
 店に入ると、狭い店内に客は私以外いない。少し不安になったが、とりあえずランチを頼もう。コロッケ定食、味噌カツ定食、えびふりゃ~定食……なんだか名前がかわいいので、私はえびふりゃ~定食を頼んだ。
 「あの、えびふりゃ~定食お願いします」
 「はいよ! お嬢ちゃん、ウチは結構量が多いけどどうする?」
 「あ、大丈夫です。食べ切ります」
 妙に嬉しそうに厨房を行き来する大将は、ダンスを踊っているみたいだ。窓から見える堀川をぼーっと眺めていると、
「はい、お待たせ」
と料理がきた。エビフライ、サラダ、みそ汁にご飯。そしてなぜか味噌カツも2切れ乗っている。みそ汁は名古屋らしい濃い赤味噌で、サラダにまで味噌がかかっているのには驚いたが、意外なほど美味しい。だが、何より美味しいのは味噌カツだ。どろっとした味噌がとても濃厚で、次に来たときは味噌カツ定食を頼もうと思った。無事完食して財布を取り出すと、
「お嬢ちゃん、お代はいらないよ」
と大将が言った。
 「え、なんでですか⁉」
 「お嬢ちゃんはお客さん第1号だから、サービス。この店、今日オープンなんだよ」
 全然気が付かなかった。驚いてお礼を言うと、大将は楽しそうに笑って、店先まで来て私を見送ってくれた。また絶対に来ようと思った。

 しかし、それから仕事が忙しくなり、休日は疲れを取るので一杯になった。3か月経ってようやく笑華亭に足を運ぶと、店内は薄暗く人気がない。入口に貼り紙があるのを見つけた。
 「閉店しました。短い間でしたがありがとうございました。店主」
 私は、少し泣きそうになってしまった。

 2年後。仕事終わりに駐車場へ行くと、管理人室の人と目が合った。それが偶然だったのか、何らかの必然だったのか、私は飛び上がるほど驚いた。
 「えっ、笑華亭の大将ですか……?」
 「あれ、……お客さん第1号?」
 大将は目を見張り、快活に笑った。当時に比べると歳を取って少し痩せているが、紛れもなく笑華亭の大将だ。
 「私を覚えてるんですか? 1度しかお店に行ってないのに」
そう聞くと、大将は顔をしわくちゃにして微笑んだ。
 「あの日ね、開店してから30分、誰も店に来なかったんだよ。開店前にいっぱいビラ配ったのにさ、地味な定食屋なんて流行らないのかなって。そしたらさ、若い女の子が急に1人で入ってくるじゃない。驚いたね。エビフライ定食を『えびふりゃ~定食』なんて大真面目に読んでくれてさ、美味しそうに頬っぺた膨らまして、ぺろっと平らげちゃった。俺、最初の客がこの子で良かったなって思ったんだよ」
 そんな風に思われていたのか。なんだか私は可笑しいような、気恥ずかしいような気分がして、ふふっと笑ってしまった。
 「もう1度行きたかったなあ。あの味噌カツ、最高でした。もう料理はしないんですか?」
 「やっぱり、じじいの店は流行らんよ。今は俺の味噌カツはね、孫が来るとき専用。お店はもうやらないけど、俺の料理はまだ活きてるよ」
 楽しそうに話す大将を見て、よかったあ、と心から思った。思うと同時に、心の奥からぐっと何かがこみあげてきて、大粒の涙がぼろぼろとこぼれてきた。
 「あれ? ごめんなさい、何泣いてるんだろ私」
 そんな私を見て、大将は慌てるでもなく、優しく微笑みながら言った。
「笑華ってのはね、俺の妻の名前なんだよ。もう何年も前に死んじゃったけど、いつか店を開くぞって約束してたんだ。俺は今満足。お嬢ちゃんとここで会えたのも、何かの縁だね」

 それから2年。私はOLを辞めて、自分で出版社を立ち上げた。まだ軌道には乗っていないし、うまくいくかもわからない。でも、やれるだけやってみようと、もし失敗しても笑って乗り越えてやろうと、そう思った。

カテゴリー
ヒューマンドラマ

コメントはこちらから

メールアドレスが公開されることはありません。

※作品に対する温かいコメントをお待ちしています。
※事業団が不適切と判断したコメントは削除する場合があります。