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パトカー
ここだけの話
朗読:久川徳明
  
劇団翔航群

 その夜は事件が起きた。
 三十五年間、小さい失敗はしつつも社会には迷惑をかけずに生きてきたつもりだ。それでも複数の警官が私を見下ろしている。とうとう厄介ごとを起こしたのだ。
「三十代と思われる男性、路上で倒れており……」云々と警察無線が聞こえた。
 背中の感触がかたく冷たい。私が横になっていたのはとある駐車場だった。
 確か近くの居酒屋で飲んでいて……それから……思い出せない。

 起きあがろうとすると、
「だめだめ。そのまま寝てて」と若い警官が私を制した。
 救急車も止まっていた。警官と救急隊員が会話している。
「ちょっと顔から出血はありますが、搬送の必要はないですね」
「酔っぱらってこけただけでしょう。署の方で保護扱いにします」

 それから少しの間は記憶が曖昧だったが、気づいたときにはパトカーに乗っていた。私の両隣には警官が座っている。この酔っぱらいにさぞかし呆れていることだろう。
 運転手の警官が口を開いた。
「前後不覚になるまで飲んじゃあいかんよ」
 顔と手の平に激痛を覚えた。よく見たら衣服には血がついていた。
 小さいころは警官に憧れていた。まさかこのような形でパトカーに乗るとは思わなかった。

 私は某警察署のロビーで休むことになった。パトカーを運転していた警官にソファーで横になるよう指示された。
「留置場じゃないんですね?」
「大丈夫だよ。少し休んだら帰っていいから」
 そう言って警官は汚い毛布を渡してきた。きっと数々の酔っぱらいを包んできた毛布であろう。妙な匂いがした。
 時刻は夜中の二時。警察署の受付は慌ただしい。
 事案は「路上の泥酔者」だけではないらしい。次から次へと相談の電話がかかってきているようだった。そんな光景を見ているうちに、毛布の中で眠りについた。

 数時間後、目を覚ました私はそのまま逃げるようにロビーを出ようとしたが、毛布を渡してきた警官に呼び止められた。
「ちょっと待ちなさい。……奥さんはいる?」
「ええ……いますけど……」
「じゃあ署まで迎えにきてもらったら?その方が安心でしょう」
「それはちょっと……まだ寝てるかもしれないし」
「お巡りさんから事情は話すからさ」
「……本当のことを言うと……離婚したばかりなんです」
「あ……そうだったの」
「昨日は元妻が荷造りしてる間、家をあけていたんですが……そのうちに酒を飲み始めちゃって……こんなご厄介を……。だから僕を迎えにくる人間なんていません」
「なるほど、なるほど。まあ気を落としなさんな。大丈夫だよ」
 無神経な警官だ。何が「大丈夫」なんだ。この男に私の気持ちなどわかるはずがない。

 警官は話を続けた。
「ここだけの話ね……お巡りさんは今年で四七歳だけど、すでに三回も離婚してるんだから」
「えっ?」
「一回の失敗ぐらい大丈夫だよ」
「離婚三回か……前科三犯……」
 ふと余計なことをつぶやいてしまったが、
「前科って……お巡りさんにその言い方はいかんよ」と警官は笑い飛ばしてくれた。
「ねえお兄さん。色々と辛いこともあるだろうけどヤケになっちゃあいかん」
「すみません……」
「お兄さんはまだ運がいいんだ。ヤケを起こして、人生を台無しにした人をいっぱい見てきた。言いたいことわかるね?」
「本当にすみません」
 深々とお詫びして、警察署をあとにした。できれば二度とここには来ない人生を送りたい。
 数メートル歩いたところで、先ほどの警官が私を追ってきた。
「おーい、待って」
 忘れ物でもしたのだろうか。
「まだあるんだよ。ここだけの話が……」
「はい?」
「来月ね……四回目の結婚をするんだよ」
 返事するのも忘れて立ち尽くしていると、警官は「じゃ頑張って」と言い残して、署に戻っていった。

 その後、顔と手のひらの痛みをこらえつつ家路についた。
 自宅の扉を開ける。いつもの部屋に間違いないが、元妻の荷物が減った分、別の空間に見えた。
 あの警官に「おめでとうございます」と言えなかったことを少しだけ悔いた。

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