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今昔ラブソング

  • 2021年1月28日

今昔ラブソング

中村朱里

 

 JR大曽根からすぐですよ、と教えられたその店は、本当に駅から5分もかからないような場所に、ひっそりと居を構えていた。『讃光堂』という看板が、『光を讃える』という名前通りに輝いているのが、夜道の中でなんだかやたらと綺麗に見えた。そしてその看板の下のショーウィンドウに、縦書きで『万年筆、ガラスペン、インク、取り扱っています』という達筆の張り紙が貼り付けられている。どきりと胸が高鳴った。
 つい先日、大須で購入したばかりのインクが入った鞄を抱き締めて、いよいよ足を踏み出す。自動扉が開かれると同時に、チャイムがリンリンリン、と涼やかな音を立てた。ぷんと鼻の先をくすぐる、図書館の匂いによく似たインクの匂い。整然と並ぶ万年筆は、どれもこれもきらきらと輝いているようで、なんだか気圧されて動けなくなってしまう。そんな私にすぐに気が付いてくれたのは、上品な雰囲気をまとったご婦人だった。
「何をお探しですか?」
 穏やかな笑みとともにゆっくりと問いかけられ、私はごくりと唾を飲み込む。
「あの、万年筆、を。はじめて、なんですけど」
 やっとの思いでかろうじて答えると、ご婦人は何故だか嬉しそうに微笑み、「では、試し書きからですね」と私を店の一角に手招いた。
 小説の中に出てくる書斎のような、とても立派なデスクと椅子。じわりと汗が吹き出すのを感じる。どうぞ、と言われても。そんな私の戸惑いは、ご婦人にははっきりと伝わっていたらしい。「皆さん、こちらの席をご覧になると、『ええっ』と驚かれるんですよ」と楽しそうに笑われてしまった。
 その笑顔がくすぐったくて、つい身を乗り出して、「大丈夫です。万年筆、その、お高いんだって知ってます。ATMで降ろしてきたから、大丈夫なんです」なんて、余計なことを言ってしまった。あらあら嬉しい、とご婦人は笑みを深め、私は顔が真っ赤になるのを感じた。
「でしたら、なおさら気合を入れて選ばなくてはいけませんね」
 ご婦人の言葉に頷いて、いよいよ椅子に腰を下ろす。私の目の前に試し書き用のノートを広げてくれたご婦人は、「まずはペン先の太さと、書き心地から決めましょう」と、ずらりと様々なメーカーの万年筆を並べてくれた。
 最初に手渡されたのは、日本製の太ペン。どうぞ、と促され、何を書こうか迷った挙句、私は震える手でペンを滑らせた。その文字列を見たご婦人が、あら、と上品に微笑む。
「戀という字をほどいてみれば、ですね」
 私は頷く。私が書いた文字は、『いとしいとしというこころ』。江戸時代の有名な都都逸の一つだ。
「失礼ですが、もしや、ラブレターを?」
「……はい」
 流石、というべきだろうか。私が万年筆を買おうと思い立った理由を、ご婦人はすぐに見破ってくれた。
 私が頻繁に通う近所の喫茶店で、いつもブレンドを啜り、モーニングのトーストをかじりながら、原稿用紙に、つややかな黒の万年筆のペン先を滑らせているあの人。黒ぶち眼鏡がよく似合うあの人は、ブルーブラックのインクで、いつだっていかにも几帳面な文字を書き連ねている。どうやら小説家さんらしい。『らしい』というのは、私が彼と喫茶店のマスターの会話を盗み聞きした時に知った情報だからだ。
 スマホで執筆する人も少なくないという昨今、万年筆で原稿用紙にだなんて、と、呆れにも似た驚きを感じたのが最初。それからなんとなく気になるようになって、目が離せなくなって。気付いたら、好きになっていた。
 そうだ。私は、あの人が好きなのだ。改めてそのことを思い知らされて、また顔が赤くなるのを感じた。そんな私を、くすくすと楽しそうに笑いながら見つめているご婦人は、茶目っ気たっぷりにウインクをくれた。
「でしたら、三千世界の烏を殺せるよう、お祈りしておりますね」
「えっ!?」
 私が思わず声を上げても、ご婦人は素知らぬ笑顔で「では次の試し書きを」と、次のペン先を勧めてくれる。どうしよう、次の試し書きには『主と朝寝がしてみたい』と書くべきだろうか……って、いやいや、そんなの、色んな意味でまだまだ気が早すぎる!

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