門出
「いらっしゃい」
予約時間の5分前。行きつけの美容室の自動ドアをくぐると、いつもの穏やかな笑顔で店長が迎えてくれる。
カントリーミュージックの流れる店内は、木目調のナチュラルな内装で統一されていて、ここは、まさにわたしの癒しの空間だ。
「こんにちは。お願いします」
「久しぶりだねぇ。随分長くなったみたいだけど、今日はどうする?」
「思いきって肩くらいまでバサッといっちゃってください」
「どうしたの? 失恋でもした?」
店長が、にやっと笑いながら言う。
「いえ。昨日、結婚式だったんです。式のためにずっと伸ばしていたんですけど、やっと終わったからさっぱりしたくなっちゃって」
わたしは、はにかんだ笑みを浮かべながら言った。
「えぇっ!? そうだったの。それはおめでとう」
「ありがとうございます」
わたしと会話をしながらも、店長は慣れた手つきでわたしの首にタオルやケープを巻いていく。
「う~ん、でもちょっと勿体なくない? 本当にバッサリ切っちゃって後悔しない?」
わたしの長い髪を、店長が名残惜しそうに触る。
「――これが終わったら、わたし、東京に行くんです」
「えっ? 新婚旅行、東京なの?」
「いえ。夫が東京の会社に勤めているので。式はわたしたちの実家のある名古屋で挙げたんですけど、午後には東京の新居に戻るんです」
わたしは伏し目がちに言った。
「そっかぁ。東京人になるのねぇ。わたしは名古屋から出たことないから、ちょっと羨ましいかも」
鏡の中の店長と目が合うと、にこっと笑いかけてくれた。
「でも、向こうの美容室なんか全然わからなくて。初めてのお店に行くのって、勇気がいるじゃないですか」
「う~ん。でもさ、ほら東京だったらカリスマ美容師なんかもたくさんいるでしょ。雑誌見て行ってみたらいいじゃない」
「無理ですよ! わたし、ものすごい方向音痴だから、ひとりで東京の電車なんかに乗ったら一瞬で迷子になって家に帰れなくなりそうで。しばらくは引きこもり決定です」
わたしは情けなく笑った。
「なぁに言ってるの。これからあっちに住むんでしょ。思いきってあっちこっち行かなきゃもったいないじゃない」
「じゃあ。慣れたら、考えてみます」
「よしっ。じゃあ、今日はわたしに全部任せて!」
店長が頼もし気に言う。
「はい。じゃあ、お任せします」
この美容室には、かれこれ5年ほど通っている。わたしの髪のクセやわたしの好みを知り尽くした店長には、安心していつもお任せしている。
いつもと同じでありながらも、少しずつ流行に合わせてアレンジを加えてくれ、しかもお手入れのしやすいカットをしてくれるここの店長とお別れするのは、わたしにとってものすごく勇気のいること。
だから今回、「これが最後」と思ってここを訪れたのだ。
「はい、できたわよ。どう?」
店長が、三面鏡でわたしのうしろ髪を映して見せてくれる。
そこには、今までとは違う自分が映っていた。
「今回はちょっと冒険しちゃったわよ。いつもは好みに合わせてできるだけそこからはみ出さないようにって思ってたけど」
「ありがとうございます。とっても好きです、この髪型」
わたしはそっと自分の髪に触れた。
これはきっと『勇気を出して、自分の殻を破ってごらん』っていう店長からのメッセージ。
「なんたって、人生で一番大きな門出なんだから。向こう行ってもがんばってね」
「はい。ありがとうございます」
わたしは、しっかりと顔を上げて美容室をあとにした。
東京に行ったら、思いきって少しだけ冒険してみよう。
店長がかけてくれた、勇気の出る魔法が解けないうちに。
同じような行きつけの美容室があるので、自分のことのように思えて共感しました。
ちょっと背中を押してほしいときもあります。前向きな気持ちで行動を起こしたら、東京でもきっと素敵な出会いがたくさんあるんだろうなと思いました。
私は主人公のような初々しい時期はとっくに過ぎてしまい、最近冒険するようなことをしていないと気づきました。
年齢などは関係なく少しくらい冒険してもいいかなと、忘れていた若い頃の感覚を思い出しました。
読み終わった後、わくわくするような前向きな気持ちになりました。
ジュンコさんへ
なかなか冒険もできないようなこのご時世ですが、
読んでくださった方が少しでも前向きになれるような作品が書けるよう、
これからもがんばりたいと思います。
ジュンコさんのコメントに、わたしの方こそ勇気と元気をもらいました。
ステキなコメント、本当にありがとうございました。