大好きなこの場所で
「あ」
桜の名所、鶴舞公園。
つい声がもれたのは、線路下をくぐって飛び込んでくる満開の桜に歓声を上げたのではなく、去年の事を思い出したからだ。
去年の今ごろも桜は綺麗に咲いていた。
青空が広がり木々の緑も眩しい。
人々の楽しそうな声を背中で聴きながら、私は鶴舞公園の奥へと進んで行く。
桜並木とは反対にある、人通りの少ないベンチに座るとやっと一息ついた。
口からもれるのは重々しいため息。
「何であんなこと言っちゃったんだろう」
お花見日和の陽気とは裏腹に私の心はどんよりと曇っていた。
小さな頃から何かあるとここに来ていた。
親に叱られた時も、テストで赤点とった時も、友だちと喧嘩した時も、失恋した時も。
いつもこの場所に来て、ぼーっと景色を眺めていた。
何があるわけじゃない。
でも空の広さと緑の深さ、噴水の音、鳥の鳴き声。
都会から切り離されたような溢れる自然の中で、ぼんやりとするのが好きだった。
そうやって自分を癒していたのかもしれない。
でも今回ばかりはダメそうだ。
大好きな景色を見ることなく私はぎゅっと目を閉じた。
不妊治療。
その言葉があるのは知っていた。
でもまさか自分にふりかかるとは思ってもみなかった。
結婚二年目。
なかなか子どもが出来ず専門の病院に足を運んだ。
結果は男性不妊。
女性に問題があると思われがちだが、その原因の半分は男性にあるという。
しかし毎月恥ずかしい思いをしながら内診台に上がるのは私。
痛い注射をされるのも私。
スケジュール管理するのも私。
病院で結果を聞くのも、次どうするか判断するのも、全部、私。
そんな事をたくさん積み重ねて私はどんどん疲れていった。
毎月出ていく高額な治療費、会社を休んで病院に通う後ろめたさ、時間だけ過ぎていく焦り。
この治療でいいのか、いつまで続けるのか。
考えても頑張ってもどうにもならず、そんな思いを彼にぶつけてしまった。
「私ばっかり頑張って!もう嫌!何で私ばっかり辛い思いをしなきゃいけないの!」
言っちゃいけなかった。
でも口からこぼれた言葉はどうにもならない。
傷付いた彼の顔を見る事ができず私は家を飛び出して、ついここまで来ていた。
お花見日和とはいえ日陰はまだ肌寒い。
ふるりと震えて目を開けると、風に乗って桜の花びらが舞い散っていた。
こんな時でも鶴舞公園の桜は綺麗だ。
その綺麗さが目にしみる。
「謝らなくちゃ」
やっぱりここは私の特別な場所なんだろう。
鼻をすすって立ち上がったその時、
「ミキ、やっぱりここにいた」
彼、タカシがそこにいた。
「ごめん、私」
「ごめん、俺」
二人同時に出た言葉に思わず顔を見合わせた。
「タカシからどうぞ」
「ミキからどうぞ」
また揃った言葉に笑いがこぼれた。
ひとしきり笑いあった後
「ごめんな、ミキの気持ちちゃんと分かってなかった」
そう言って差し出されたのが
「…何で、おしるこ?」
「ダメだろ、カフェイン」
珈琲にも紅茶にもお茶にもカフェイン入ってて温かいもの探したらこれしかなくてさ、と当たり前のようにそう言った。
「まだ妊娠してないよ」
「それでも気を付けてたろ」
知ってたんだ。
温かい缶がじんわりと手を暖める。
「俺もっと頑張るよ、不妊治療の助成金も調べるし、掃除も洗濯も、ご飯だって作れるようになるし、禁煙も禁酒も禁カフェインだって」
そう言ってもう一本のおしるこを取り出した。
「だから一緒にお父さんとお母さんになろう。ダメだった時は一緒に考えよう」
その日から特別だったこの場所はもっと特別な場所になった。
「飲み物買ってきたよ」
振り返るとあの日と変わらない笑顔の彼がいる。
「ありがとう、ってまたおしるこ?」
「授乳中も止めてるだろ、カフェイン」
俺も付き合うよと出した二本のおしるこ。
「そんなこと言って、おしるこにハマってるんでしょ?」
「バレたか」
暖まるのは手だけじゃなくて
「困ったパパだねぇ」
胸に抱いた愛しい我が子と
「抱っこ、いつでも代わるよ」
隣を歩く大好きな人。
そして
「桜、綺麗だね」
私の大好きな場所。