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夜空に浮かぶ月
びわ
朗読:千賀利緒
  
優しい劇団

 なんだってきょうは、こんなに混んでいるのだろう。
 ホームは人でいっぱいだ。
 アイドルの名前入りの、大きな団扇を持った女の子たち。
 青い野球帽にバット型のメガホンを首にぶら下げた家族連れ。
 コンサートとナイターが重なったのか。
 それにしても、進まない。
 いつも乗る快速電車が着くのは、向かいのホームだ。発車時刻が迫るのに、階段で渋滞している。
 階段の中ほどで流れが止まった。目の前の人で、足元が見えない。
 この駅の階段は広い。広いけれど古いから、階段のステップが石造りだ。石の角が丸まっていて滑りやすい。
 ……ポーン、……ポーンと、階段の位置を知らせるチャイムが、単調で間延びした音を奏でている。まずいな、人いきれで気分が悪くなってきた。
 快速に乗るのはあきらめようか。

 普通列車でさえ、つり革を確保するのがやっとだった。
 列車は停車のたびに、冷えた空気を逃がす。幾つめかの駅で、入り込んできたぬるい空気の塊に咽てしまった。
 はじめは整えるように喉を鳴らしていたが、どうしたはずみか身体を曲げるほどせき込んでしまった。
 時節がら、周りの視線が痛い。
 息苦しさと、居たたまれなさの両方で、逃げるように列車を降りた。知らない駅だ。
 列車が行き過ぎると、遠雷みたいな音が聞こえた。この先の鉄橋で川を渡るから、レールが深く響くのだろう。
 次の列車まで何分待つのか。ベンチすらない小さなプラットホームだ。
 無人の自動改札が、氷のように白く浮き上がって見えた。
 ひとり列車を待つのも退屈だし、すこし歩いてみようか。

 駅を出ると、堤防沿いに細い道が続いていた。
 昼とは違う草の臭いと、りりり、りりり、と虫の音が聞こえる。
 なんだか懐かしい気がする。いや、気のせいじゃない。
 自然と、足が速まる。
 この先に、あるはずだ。
 だんだん思い出す。せがんで連れてきてもらった。
 水神様のお祭りに。

 何十年ぶりだろう。
 祠の前に立った。
 改めて見ると、崖だと思っていた堤防は、なだらかな丘のようだ。神社のように思えた祠は、傍らの木に抱かれ、ゆりかごのように見えた。子どもの目で見るのとは、違って見えるのか。
 ただ、琵琶の木は、変わらず、祠を守るように立っていた。
 太い幹から、しなやかに枝が伸びる。葉擦れの音は、お互いに笑い合っているようだ。夜目にも実が艶めいて、黄色いぼんぼりにも見える。
 まるで夜店の灯りだ。夜店の屋台は、夏の楽しみだった。

 そういえば、一度、迷子になって、大泣きしたな。
 あの日は、父さんと来ていた。汗だくの父さんに、この祠の前で見つけてもらえた。
 迷子になっていたのは、ほんの何分かの出来事だったのかも知れない。でも、不安な気持ちが収まりきらなくて、ずっとしゃくりあげていた。涙が止まらなかった。
 慰めるつもりだったのだろう。父さんはぐっと手を伸ばして、ひとつの実をもぐと、ほい、と握らせてくれた。
 その後、びわをどうしたか、思い出せない。「りんご飴の方がいい」なんて駄々をこねたのだっけ。

 あの時と同じ、びわが実っている。
 いたずら心で手を伸ばした。
 しかし、寸前のところで、実のついた枝に届かない。
――あと、もう少し――
 その時、横をかすめて、大きな手が指先の実をもいだ。
 びっくりして振り向く。
 懐かしい笑い皺があった。ほい、とこちらへ、びわの実をよこす。
「お父さん」

 額にひんやりとした何かが触れた。
「大丈夫ですか」
 気が付くと、制服の駅員が、額にタオルを当ててくれていた。
 乗換えの階段の途中、貧血で倒れたらしい。
 夢をみていたのか。
 お礼を言うのもそこそこに、駅員室を出て、ホームに戻った。
 月が黄色く輝いていた。
 ホームは帰宅のピークも過ぎたのか、人はまばらだ。
 今度こそ快速に乗った。
 車窓に目をやりながら、座席で揺られる。
 川沿いの駅を通過した。
 もうじき、父さんの命日だ。
 びわを買ってお参りしようか。
 手の中に、びわのまるい感触が残っていた。

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