NAGOYA Voicy Novels Cabinet

ピロシキとコーヴォ

店頭に並ぶパン

 パンの激戦区、名古屋。その地元で従兄のおにいちゃんが脱サラしてパン屋になったと聞いた時、私は高校生だった。ほら、あなたが小学生の時、「コンビニのピロシキご馳走してくれた!」って喜んでたあのヒロシゲくんよ。親戚との長い電話を終えて母が言った。従兄は私と十くらい年が離れていて、学生の時は陶芸家を目指していた。美術展で自分の入選作品を前にして「何かが足りないんだよなぁ」と長い首をひねる変わり者。ピロシキの美味しかった思い出から、彼を「ピロシゲ」と心の中で呼んでいることは、私だけの秘密だった。学校帰りにピロシゲのお店を覗きに行ったあの時はメロンパンが大流行、5種類は棚に並んでいた。相変わらず目の下のクマが深い、白いコックコート姿のピロシゲは私の帰り際に、紙袋いっぱいのパンを持たせてくれた。今思えばそれらは売れ残りで、開店したばかりの店は経営状態も厳しかったはず。それでも金無し客無し恋人無しの彼は、お小遣い稼ぎ廃棄パン目的の浅はかな私を期間限定バイトとして雇ってくれた。
 「ね、店長。お店の名前の『コーヴォ』ってどういう意味?」
 ヴォが発音しづらいVであると気づいてたまらず高校三年生の冬、受験を控えた私はピロシゲ店長に尋ねた。職人というより芸術家気質だと親族間でもっぱら噂の、感受性が強くて繊細なピロシゲ。どんなにダサいネーミングだったとしても私だけは笑うまい、彼の作り上げる世界観を壊すまい、と心に決めていた。えーと、沢山意味があってね、と天井を仰ぎながら彼は白い手の粉をはらった。
 「一つはパンを発酵させる酵母、二つ目は作品を作る場である工房、三つ目は攻めたり守ったりの攻防…なんて全部後付け。本当はイタリア語でアジト・隠れ家って意味のコーヴォ。」
 「じゃあ、もっとおしゃれな隠れ家ベーカリー感、前面に出していきましょうよ!」
 無事大学生になった私は、コーヴォのSNS運営を担当。知る人ぞ知るお店の外観を演出したり、陶芸作家とコラボして新商品の撮影をしたり、予約限定の高級裏メニューを提案してパンを、彼の世界観を売りまくった。社員を雇ってお店が軌道に乗ったところで私は就職活動、コーヴォからはフェードアウト。
 それから時々、ピロシゲは私に恩を感じているのか連絡をくれて、2、3か月に一回、美食研究会と称して食事に連れていく。有名店のひつまぶし食べ比べ。大須で最新スイーツ食い倒れ。ピロシゲ社長に代わってライバル店でパンを購入したり、就職祝いのフレンチに緊張して、ペアリングのワインを飲みすぎたこともあった。その間、コーヴォは快進撃を続け、市内3店舗に拡大、食器やカトラリーのプロデュースまで手掛けるように。それでもピロシゲは「まだ何かが足りないんだよなぁ」と、社会人になった私にも、会うたびにぼやいていた。
 そんな時、私たちに転機が訪れた。新型コロナウイルス発生。外出自粛期間の延長。
 ピロシゲ社長は早々にパン屋の対面販売を休止、宅配サービスに切り替えて被害を最小限に抑えた。加えて、家庭用に冷凍パン生地のネット通販を企画して大当たり。騒動も落ち着いてきたから近況報告も兼ねて、ということで久々に彼の自宅に招かれての美食研究会。今夜の鍋、てっちりを前にしても彼は「やっぱり何かが足りないんだよなぁ」と私にこぼす。土をこねていた芸術家の卵から、営業ノルマに追われた会社員を経て、日々努力を怠らないパン職人に成長し、従業員を守る敏腕経営者の引き締まった顔になっても、まだ満足していない。
「ねえ、何が足りないの?私は今回のことで価値観があぶりだされて恋人と別れて仕事も辞めざるを得なくて、失ったものばっかり。そんなの、私にもきっとずっとわかんないままだよ。」
 堪えきれずにあふれ出した涙の中で、彼の表情が歪む。ひそめた眉毛は凝り固まったまま戻らない。だからさあ、ずっと同じこと言ってるだろう、とピロシゲはため息まじりに話し、お玉で鍋をよそう。
「コンビニ帰りに公園で、ピロシキ一緒に食べた時からずっと。」
お玉を置く白い手が震えていて、私はようやく彼に何が足りないのかを知る。

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