夏の夜の「錦三」は騒がしかった。香苗は夜の女性たちのための美容室でセットしてもらった髪を、何度も触って出来上がりを確認しながら、19時の開店に間に合うように急いでいた。
初めて着物で出勤するのは、やはりドキドキする。会員制クラブ「麗華」で働きだしてから、もうすぐ1か月になる。
初める前は、やはり水商売には抵抗があった。でも、やってみると、意外に合っているかもしれないと思い始めた。ママは口さがないところはあるが快活な女性で、おしゃれやマナーに対するチェックの目は厳しくも、女の子を大事にしてくれる。遅くなると「さあさあ、終電のシンデレラたち、お帰りよ」というのが口癖だ。
昼間働いているメーカーの事務より、店のほうが、どこかホッとする自分の居場所のような気がする。他のフロアレディの女の子たちとも、仲良く話すことができる。
しかし今日は、ママから重大なことを頼まれていた。実は、香苗は趣味で社会人落語を続けている。それを聞いたママたちが喜んでしまって、「ぜひ店で一席!」と大フィーバーしてしまったのだ。
「でも、最近は稽古する時間がなくて…」
「いいのよ!失敗してもご愛敬、ご愛敬!」
ほぼ無理強いである。香苗は少し落ち込んだ気持ちになっていた。
いざ、店に到着すると、いつものお客様が席で待っているからと、すぐにテーブルにつくことになった。島崎さんというこの六十代ぐらいのお客様は、とても嬉しそうにビールを勧めてきた。
「落語やるんだって?」
「……ええ、まあ、一応……そうですね」
「いっちょう、頼むよ。扇子と手ぬぐいは?」
「持ってまいりました」
ポーチから扇子と手ぬぐいを取り出すと、少し手が震えた。島崎はそれを見逃さなかった。
「緊張してる?」
「はあ、お店では初めてなので」
笑ってごまかそうとしたが、表情がこわばっているのが自分でもわかる。すると、島崎が何かを手に握らせてきた。一瞬驚いたが、何かと思って手を開いてみると、それは美しい簪だった。高級そうな品である。
「この簪をつけてやれば絶対うまくいくよ。大丈夫」
ママの顔を見ると、
「お借りするだけなんだからいいじゃない。あとでお返ししなさいな」
との言葉が返ってきた。それではと、気休めに簪を髪に差してもらった。
「何をやりましょうか?」
「いいね! その意気だよ。艶っぽい話がいいよね」
「では、『紙入れ』なんかどうでしょう」
「おっと、俺の好きな噺だ。ぜひやってくれ」
すーっと深呼吸すると、香苗は自分の覚えている落語『紙入れ』を、演じ始めた。その場にいたお客様方は、異様にくいつきがいい。新吉とおかみさんのやり取りになると、
「いいぞ!」
とみんなで励ましてくれる。そして、笑いどころではどっと大爆笑。大うけして、無事に演じ終わった。拍手喝采である。
(よかった、最後までちゃんとやり通せた…)
香苗が簪を髪から抜いて、島崎に返そうとすると、彼はそれを押しとどめた。
「いいよ。その簪はあげるよ。あなたのために買ってきたんだ」
「でも、こんな高級なもの、いただけません」
すると島崎はウィンクして、
「実はそれ、芸姑さんから安く譲り受けたものでね。俺が持っててもしょうがないんだ。その芸姑さんは『これをつけているとうまく踊れるし、歌もハリが出るんですよ』って言うから、本当かどうか試してみたかったんだよ」
と言った。香苗はうなずいた。
「確かに、何か、自信がつくような気がしました」
「でしょう? 芸姑さんね、その簪は先代から譲り受けたって言ってて、元はもちろんいいものなんだと思うよ。でもね……」
「でも?」
「それ持ってると、嫁に行けないらしい」
どっと爆笑が起きた。つられて思わず香苗も笑った。
「じゃあ、いい人が見つかったら、誰かに差し上げることにしますね」
「おう」
島崎はそのまま会計をして店を出た。彼の乗ったタクシーを見送って、香苗は、手の中の簪をじっとみつめた。
「もしかしたら、社会人落語日本一決定戦、優勝しちゃうかも」
ひとりつぶやいて、香苗はふふっと笑った。