NAGOYA Voicy Novels Cabinet

木蓮の思い出

 今から十数年前、勤めている会社が創立三十周年を迎えた。どういうわけか、私は記念行事式典の実行委員になってしまった。ちなみに、私はじゃんけんが弱い。名誉なことだが、少々面倒である。
 しかし、やり始めたら、とても楽しく出来た。普段会うことのない職場の方々と会話するのは、たいへん有意義ではあった。
 当日の式典は厳かなもので、約二時間、張り詰めた空気が会場に充満していた。
 私は来賓に、お土産を渡す係であった。これまた、緊張しっぱなしだった。
 式典終了後、実行委員長が実行委員全員に集合をかけた。
「皆さん、いろいろご苦労様でした」
 お辞儀をして挨拶をされた。
「それでですね、記念に食事会をしたいと……」
 私は委員長からすると、ずいぶん後ろの方にいて少し聞き取りにくかった。だが、食事会という言葉は聞こえた。あとはあまり聞こえなかった。思わずにやけてしまった。
「役員たちの意見ですが、木蓮がよいのではと……」
 あまりよく聞こえなかったが、全員が手をあげた。もちろん私もあげた。木蓮ってお店なのかな?
「賛成多数ということで。参加できる方はよろしくお願いします。詳しいことは……」
 委員長はまだなにかを話していたが、よく聞こえなかった。
 私は木蓮をよく知らなかった。
 やはり、名前からすると高級和食?
 いやいや、もしかしたら中華かな?
 意外なところで、創作料理かも?
 もっと意外なところで、フレンチかイタリアンかしら?
 ものすごく想像がふくらむ。妄想は止まらない。
 なにしろ創立三十周年だもの。たかが食事会、されど食事会。きっとめったに食べることのない高級料理だろうな。うふふ、笑みがこぼれる。
 ロッカーで着替え、帰路についた。
 たまたま一緒に実行委員になった、となりの職場の先輩と駅まで歩いた。
「先輩、食事会っていつですか?」
 たずねてみた。
「聞いてなかったの?」
 不思議そうな先輩。
「聞こえなかったんですよ。私、後ろの方だったんです」
「あら、そう。二週間後の金曜日、終業後だそうよ。詳しいことは社内メールでまわってくるわよ」
「どこでやるんですか?」
「会社内の中庭よ」
「えっ! 中庭? お弁当ですか?」
「ほかにどこでやるのよ。それに弁当ってなに?」
「だって、木蓮ってお店じゃ?」
「はあ? お店? あなたなにか勘違いしてない?」
「えっと、記念の食事会ですよね」
「違うわよ。記念の植樹会よ」
「ええーーー! 植樹会!」
 私は、驚いた。そんな、まさか。
「木蓮植えるのよ。三十周年記念にね。なにと聞き間違えてるのよ。あはははは」
 先輩は笑い始めた。
「そうですね、あはははは」
 そうです。私聞き間違えてました。
 食事会と植樹会。
 先輩は歩けなくなるくらい笑っていた。私も一緒に大笑い。二人でしばらく、しゃがみこんで笑い尽くした。歩こうと思っても、二人とも笑いすぎてフラフラで前に進みづらかった。こんなに笑ったのは初めてかもしれなかった。

 二週間後、予定通り植樹会が静かに行われた。
 一メートルほどの木蓮が植えられた。神主がお神酒をかけ、祝詞をあげていた。となりには創立三十周年の立札があった。
 終了後、ペットボトルのお茶と記念のお菓子が参加者全員に渡された。
 世の中のきびしさを私は知った。
 豪華な食事会は、まぼろしだった。おそらく、私の頭の中だけで見たのだと思う。

 あれから幾度か季節はめぐり、今年も春が来た。
 また、木蓮の花が空に向かって咲いているのを、歩いていたら見かけた。濃い紫だったり、白かったり、見事に美しい。
 しかし私は、木蓮を見るたび、笑いが止まらなくなるのであった。
 あの大笑いは、後の人生でまだない。
 

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