「月の光も漏れない闇の森って言うから、どんな所かと思った」
歩道から神社への石段を上がりながら、直斗は拍子抜けしたように晃に言った。直斗と晃は、大学の同級生。同じ職場に就職している。
今日は仕事帰りに晃に誘われて、直斗は闇之森八幡社にやって来たのだ。しかし、直斗は鳥居脇の由来の立て札を見るなり、眉をひそめた。
「この神社で、心中事件があったとあるぞ」
「江戸時代のことさ。享保18年と書いてあるだろ」
晃が答えると、直斗は舌打ちをした。
「ゲン担ぎに面白い場所があると言うから付いて来たのに、心中だなんて縁起でもない」
「心中じゃない。心中未遂だ」
晃が訂正すると、直斗は「どっちだって同じようなもんだ」と言った。
直斗は由香との結婚を双方の両親から反対されて、悩んでいた。晃もその事を知っている。「いっそ彼女と心中でもするか」と、やけになって直斗が言ったのを聞いたばかりだ。晃は「随分、古めかしい事を」と笑ってから、直斗をここに連れてきたのだ。
「同じじゃないさ。この事件の結末はハッピーエンドだったんだから」
予想外の返事に、直斗は驚いたようだ。晃は続ける。
「飴屋町花村屋の遊女小さんと日置の畳屋喜八が起こした事件は、浄瑠璃にもなった。立て札にも『ここで起きた心中未遂事件を題材にした浄瑠璃「睦月連理玉𢢫」が上演され、名古屋中の大評判となった』とあるだろ」
「それのどこが、ハッピーエンドにつながるんだ。それに、享保といえば『享保の改革』だ。芝居や祭りで浮かれるのは、幕府から駄目出しされていたんじゃないのか」
「そうさ。享保は、質素倹約が第一の暴れん坊将軍八代徳川吉宗の時代だ。芝居や祭りは廃止や縮小の憂き目にあい、巷で流行っていた心中物の浄瑠璃も上演禁止。脚本を書くことさえ、ご法度のお触れが出ていた。ましてや、実際に心中事件を起こそうものなら、死体は打ち捨てという厳しい処分。万一生き残れば三日三晩晒し者になり、人にあらざる者として人間以下に落とされたんだ」
「だったら、ハッピーエンドのはずがないじゃないか。俺をかつぐのはやめてくれ」
怒って帰ろうとする直斗を、晃は止めた。
「まあ、落ち着いて話を聞けよ。ここは名古屋だ。当時の尾張藩主は七代徳川宗春。虎の陣羽織を着て白い牛に乗り3mのキセルをくわえて領民の前に現れる殿様だ」
宗春と聞いてハッとした直斗の顔を見て、晃はうなずいた。
「将軍吉宗の質素倹約に反して、宗春は祭りや芝居を奨励した。だから、江戸では憚られる心中物の浄瑠璃も、名古屋では大評判になったのさ」
「だけど、それがどうしてハッピーエンドになるんだ」
まだ納得のいかない様子で直斗は、晃にたずねた。
「心中未遂の後、小さんと喜八はどうなったと思う」
「三日三晩晒し者にされて、人にあらざる者になったんじゃないのか」
「それが入牢後、広小路で三日間ごく短い時間、晒されただけで許されたんだ。その後、二人は結婚して元気な男の子の親になったそうだ」
「それなら、ハッピーエンドだ」
「尾張名古屋は情けに厚い。そして、浄瑠璃を仕立てた宮古路豊後掾は江戸で名声を高め、豊後節を興した。豊後節から派生するのが常磐津、新内、清元だ。いわば、この心中未遂が現在の浄瑠璃のルーツを築く切っ掛けの一つになったといえるんだ。芸どころ名古屋の面目躍如じゃないか」
「おいおい、晃。いくら神社の前が中学校だからって、日本史の授業じゃないんだぞ」
直斗は笑い出し、晃より先に鳥居を潜った。
「その昔 植ゑにしきぎの 年を経て 月さへもらぬ くらがりの森」と江戸時代に謳われた深い森にも、人の情けの光は届いたのだ。
今は都会の真ん中にある神社の境内には、皎々と月の光が差している。
きっと直斗は二人の両親を説得して、由香と結婚できるだろう。晃は本殿の前で手を合わせる直斗の背中を見ながら、そう信じていた。