NAGOYA Voicy Novels Cabinet

一週間の奇跡

ケーキのショーウィンドウ

 JR タカシマヤの地下にあるケーキ屋が僕の職場だった。
 英語とフランス語が話せるのが決め手となって就職が決まったのはラッキーだったが、当時の僕はまだ日本語のヒアリングはできてもスピーキングには自信がなく、職場の人間関係は最悪だった。
 この頃職場での立場を悪くしていたのは、僕がカナダ出身だからでもファーストネイションズだからでもなく、自信のなさから自分の殻に込もってコミュニケーションを拒絶していた僕の自業自得だと言うことを、後から知ることになる。

 月曜日、店のバックヤードで空になったクリーム色のケースを台車に積んでいると、突然「お疲れさまでした!」と声をかけられた。僕は顔をあげ、辺りを見回す。声をかけた若い女性は颯爽と出口に歩いていく。バックヤードには僕しかいない。僕に話しかけたのか?後ろ姿は全然知らない女性だった。同僚にも挨拶をされない僕になぜ声をかけたのか。訳もわからないまま仕事が終わり、念のためネットで意味を調べてみる。
 「お疲れさまでしたとは、ねぎらいを込めた別れの言葉」とある。やはり挨拶をしてくれたのかと首を捻る。なぜ僕に?
 次の日、同じ時間にバックヤードに出てみた。それがいけなかった。一番怖い女性社員に見つかって、僕はきつく叱られた。「用もないのにバックヤードで何をしているの!堂々とサボられちゃ困るのよ!」
 タイミング悪く昨日の女性が顔を伏せたまま僕たちの横を通りすぎていった。
 ああ、みっともないところを見られてしまった。
 水曜日、紙袋の補充を言いつけられてバックヤードに出ると、また例の女性とでくわした。なんとなく気まずくて下を向く。彼女ももう「お疲れさまでした。」とは言わない。すれ違いしばらくして足音が戻ってきた。振り向くと彼女が小走りに近づいてくる。僕は焦った。次の瞬間、彼女は僕の手になにかを握らせ、「ドンマイ」と言って去っていった。ドンマイ?驚いて何も言えず呆然と立ち尽くす。手を開くとイチゴのイラストがかかれた小さなキャンディが一つ僕の手の中に残されていた。家に帰り、再びネット検索をかける。
 「ドンマイとは。気にするなの意味、Don't mind から」とある。
 「Don't mind ! 」僕は小さく叫んだ。そうか、昨日叱られていた僕を見て、今日は慰めてくれたのか。
 とっさにお礼を言えなかったことが、急に悔やまれた。
 木曜日、僕は休みだった。
 客に紛れてJR タカシマヤのフロアを回る。バックヤードを使うということは彼女はタカシマヤの従業員のはずだ。僕は彼女がどこで働いているのか知りたかった。最上階から順番に回り、ついに10階の催会場で彼女を見つけた。
 そこは期間限定の外部ショップの催事場で、チラシはすでに土曜日から行われる「北欧キルト展」のものに差し替えられている。僕は近くのスタッフに尋ねた。「これは明日まで?」男性スタッフはにっこり笑って「そうですね、タカシマヤさんでは明日までで、来週からは東京の方での出展となります。」と言った。彼女は?一緒に東京に行ってしまうのか?バックヤードで会えるのは明日が最後なのか?僕の頭はぐるぐると回っていた。
 なんとか家に帰った僕は、翻訳アプリを駆使して、手紙を書いた。日本語のライティングは本当に難しい。「わたしはあなたとはなしがしたいです。」これだけ書くのにずいぶん時間がかかった。チャンスは明日の18時一度きり。何とか彼女に気持ちを伝えたい。
金曜日の18時、僕はまた叱られるのを覚悟でバックヤードに張り込んだ。いくつもの足音が響く中、彼女の姿を見つけた僕は人目も気にせず駆け寄る。 
 進路を塞ぐように彼女の前に立ち、緊張に震える手で手紙を差し出す。
 驚いた顔で紙を広げた彼女は親指と人差し指で丸を作ってこう言った。
 「オッケー!それじゃ、上のドーナツ屋さんで待ってます。」
 日本語がうまくなるコツは日本人の彼女を作ることだとハワイで現地添乗員が言っていたが、まさにその通り。彼女のお陰で職場でのコミュニケーションもとれるようになった。あれから10年、まもなく彼女は僕の妻になる。

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