NAGOYA Voicy Novels Cabinet

Do to need you

どて煮

 「今日、いいもの作ったよ」

 妻が『はにかむ』というよりは、『にやにや』した表情でつぶやく。ここで言う『つぶやく』とは、あえて小声で話して興味を引こうとしているだけであって、本当の独り言ではない。これは『きっと、あなたは喜ぶよ。私はそれが分かっているのだもの!』という自信の現れだ。
 だから、僕は当たり前のように直感する。今日のお夕飯は、牛すじ肉のどて煮であるということを。
 すじ肉を300グラム、板こんにゃくを2枚、大根を2分の1本。赤味噌、砂糖、みりん、醤油、これらを圧力鍋でじっくりじっくり煮込んだ妻の得意料理。牛すじ肉がもつに変わることはあるけれど、基本的には同じレシピで茹で卵が入るかどうかは気分次第の逸品である。
 家の中に味噌の香りがあるにも関わらず、お味噌汁を作っている気配がないことから『もしかしたら…』という予感はあるものの、それには一切、触れないのがマナーである。

 「どて煮だよ」

 『分かってたよ!』とは言うわけもなく、『え?そうなの?うわぁ、すごく美味しそう!!』と嘘と真実の半々を口にするのをためらって、箸でとろけ落ちそうな牛すじ肉を口に運ぶ。

 この甘さは砂糖か?それとも熟成された味噌の奥深さか?牛すじ肉に隠されていたポテンシャルか?

 「うん、いいね」

 本当は『めっちゃ、おいひい』と『おいしい』を『おいひい』と崩して表現するのがポイントと思うけれど恥ずかしくて無理だ。夫婦において大切なのは、いかに『あなたがしてくれたことに私は喜んでいるのです』を表現することである。そんなことは分かっているけれど、態度で気づくのが夫婦だろ?と。

 「ありがとう」を言うことは当たり前なのである。
 だから、言わなくても伝わっている。

 だから、もっとも大切なことはたくさん食べること。百聞は一見にしかず、義を見てせざるは勇なきなり。手は手でなければ洗えない、得ようと思ったらまず与えよ。つまりは『やれ』だ。
 それが愛情表現である。妻を愛す、妻に感謝する、牛すじ肉にとろみを感じて、こんにゃくの歯ごたえと味の染み具合に驚き、大根が驚くくらいの濃い色に染まって、茹で卵が存在すること自体に感謝するのだ。

 もちろん、いつでも、いついかなる時でも健やかでいることは難しいかもしれない。けれど、どて煮を食べながら思い出さなくてはいけない。妻が僕のそばにいてくれているということを、それが当たり前ではないのだという実感をしなくてはならない。そして、これらが奇跡であるのだと認識するべきなのだ。

 もしかしたら、明日、目覚めたら僕の隣に彼女はいないかもしれない。そんな風に考えるべきなのだ。今日と明日は、違う日だ。同じではない。同じであるはずもない。地球は自転する、そして公転する。ただし、事態は好転するとは限らない。

 もう、『ありがとう』を伝えることはできない。
 もう、『美味しい』を伝えることもできない。
 もちろん、『愛している』を伝えることもできない。
 そんな日々が僕の隣に、ただ、そっと寄り添っている。

 「今日は、いいものを作ろう」

 独り言が増えたことを少しばかり気にしながら、僕は牛すじ肉を300グラム、板こんにゃくを2枚、大根を2分の1本。赤味噌、砂糖、みりん、醤油、これらを圧力鍋でじっくりじっくり煮込む。すじ肉がもつに変わることはあるけれど、基本的には同じレシピで茹で卵が入るかどうかは気分次第だ。
 味が染みるためには時間が必要な料理なので、食べる日の三日前くらいから仕込みを始める。『そうか、三日も煮込んでいたのか』というのが、ようやく最近になって分かった。

 「どて煮だよ」

 と、一人の部屋で誰に言うわけでもない言葉は宙に消える。きっと、窒素が意地悪しているのだ。この言葉は、天国とかそういったところには届かない。

 食事を終えて、僕は食器を片付ける。
 そして、後悔するのだ。

 言わなかった言葉があることを。

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