NAGOYA Voicy Novels Cabinet

浄化の夜

天むす

「まりちゃん! 私、就職決まったよ!」
「そうなんや、おめでとう! どこに住むことになるん?」
「名古屋!」
 
 名古屋へ行くのは、生まれて初めてだった。とりあえず、おいしいものを食べて、神社を参拝できたらいいかなという、軽い気持ちで、新大阪駅からの電車に乗った。
 智美(ともみ)は、名古屋からほど近くの、岡崎市の工場の寮に住むことになったという。そのとき、わたしは、大阪の実家に住んでいた。
 智美とは、伊勢神宮へ旅したとき泊まった宿で出会った。この歳になって、新しい友人ができる。しかも、旅先で。これは、なかなかに新鮮なことだった。
「まりちゃん! ここ!」
 JRの改札を出て、うろうろしていると、智美の姿があった。そこには、金ピカの時計がそびえ立っていた。私たちは、そこが、名古屋のひとにとっては、待ち合わせのメッカであることは、まだ知らなかった。しかし、何とも晴れがましい感じの場所に感じた。
 私たちは、熱田神宮へと向かった。知らない街で、電車を乗り継ぐのは、いかにも旅という感じで、新鮮な体験だった。
 伊勢神宮で出会った私たちなので、お互い神社仏閣には興味があった。私は、御神木など、神社境内の自然に興味があった。特に、熱田神宮では、神鶏に出会えたのが収穫だった。
「寮生活はどう?」私は尋ねた。
 智美は、寂しそうに微笑んだ。
「まりちゃんは? お弁当屋さんの仕事、慣れた?」
 と返され、わたしも、ただ微笑むことしかできなかった。
 お互い、無職のときに伊勢で出会い、新しい道を踏み出しているところだった。しかし、現実は甘くなかった。そんな鬱々とした日々の中で、今回の休みは、互いにとっては清涼剤のようなものだった。
 私たちは、帰りにスーパーへ寄り、天むすや、手羽先、味噌カツなどの名古屋の食べ物と、お酒をしこたま買い占め、智美のアパートへと向かった。
 智美のアパートは、住宅街の中にあった。こういうところに、今どきの工場労働者の人は住んでいるのか、と私は感心した。新しいアパートは、家具もすべて設置されていて、身一つで入ることができる。家賃もかからないし、きっとお金が貯まるだろう。
「乾杯」
 私たちは、安い酎ハイを飲み始めた。
「いいところ住んでいるね」
「やっと決まったよ。もう、今までのことは、リセットリセット!」
 私たちは、どんどんお酒の杯を重ねていった。手羽先や、味噌カツなど、味のしっかり付いている名古屋の食べ物は、お酒の進むこと進むこと。そして、私は、尋ねた。
「リセットって、あの人のことも?」
「……」
 智美は、前の職場で、妻子ある人と恋愛関係になっていたのだった。そして、私も、同じような環境にあったのを、抜け出した直後だった。だから、お互いにシンパシーを抱き、急速に仲良くなったのである。
 智美の目から涙が溢れてきた。
 お酒が入っていて、いい具合にタガが外れ、智美は号泣した。そして、私も、終わった恋を思い出し、盛大に泣いた。他に見ている人はいないし、名古屋という初めての土地なのもあって、旅の恥はかき捨てとはこのことかというくらい、泣いた。
 それからどれくらい時間が経っただろうか。私たちは、ようやく我に返った。
「お腹すいたね」
 と、顔を見合わせて笑った。
「天むすがまだあるよ」
 智美は、天むすを少しレンジで温め、お茶も淹れてくれた。しこたま泣いた後に、天むすの塩気が、ちょうどよく体に染み渡った。
「あーー、泣いた。これで、向こう10年は泣かなくて済むわ」智美は笑った。
「毒出しかもね。熱田神宮参拝したから」
「毒出し?」
「コップの底に、汚れがあったら、そこに綺麗な水を注いだら、その汚れがまず浮き上がってくるでしょ?」
「ああー。でも、本当、そんな感じかも」智美は濃いお茶をすすりながら呟いた。
 そして、結局私たちは、早朝に、また熱田神宮へと向かった。今一度、心機一転を誓いに行くこととなったのだ。
 昨日の賑やかさとは一転し、境内は、静謐な空気に満ちていた。少し靄がかかり、一面に神秘的な空間を作り出していた。
 

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