NAGOYA Voicy Novels Cabinet

明日にオールイン

トランプ

 ボードにKが出た。俺の左に座った、メガネの爺さんの顔が、一瞬だけ明るくなった。だがすぐに、残念そうな表情に変わった。恐らく爺さんの手札にQがある。その前の反応と合わせて考えると、手札はAとQの筈だ。今のうちにレイズすれば、必ず降りると確信した。そして、案の定、爺さんは降りた。
 この頃の俺は、『tomorrow』というポーカーハウスに足繫く通っている。ノーレートだからか、他の客は明るく雑談しながらプレイしている。でも、俺は無言を通している。観察には、集中力をかなり使うからだ。また、集中力は短時間しか持たない。だからいつも、すぐ帰る。
 俺はとても眼がいい。人の仕草などを観察するのが好きだ。世界を観察するのは、自由で平等だと思っている。かなり細い眼は、神様からの授かりものだ。
 ただ、俺が絶対に見たくないものがある。それはデブで不細工な自分自身だ。現在は大学3年生だが、サークルや部活やバイトは一切関わらず、友達も作っていない。
 俺は毎朝、金山駅から通学している。駅に向かって東海道線の坂道を自転車で登ると、アスナルがあり、その奥の駐輪場に停める。
 お腹が空いた時は、そこから歩いて『LOOK』という喫茶店に入り、予習をしながら、ボリューム満点の小倉トーストを食べる。
 ある夏の朝、深見という、毎日出勤しているウエイターが話しかけてきた。長い黒髪を後ろに縛り、キッチンにいる時の真剣な表情から、こちらに笑顔を向ける瞬間が素敵だった。
「難しそうな本だね。」
「ああ、はぁいい。」
「何これ?ルベーグ積分?」
「確率の本です。」
「へえー、数学出来るんだ。凄いね。私、高一で諦めたから。」
 俺は息が苦しくなった。
「時間になったので、会計をお願いします。」
「邪魔してごめんね。また、来てね。」
 翌朝、俺は金山駅に6時に着いた。開店まで、アスナルのベンチで本を拭いていた。
 でも、深見さんは、みえなかった。その日、俺は初めて大学の授業をさぼった。
 次の日もLOOKに入ったが、みえなかった。本を片付けて、レジに向かおうとした時に、深見さんが来店した。ショートカットになり、真っ白なワンピースを着ていた。そして、俺の真向いに座り、腕を机の上で組んだ。
「ねえ、映画を観に行かない?」
「え?」
「絶対に、観たい作品があるのよ。」
「ええ。ああ。」
 深見さんは顔を近づけた。大きな瞳が俺に迫った。勝ちを確信した笑い方だった。
「アンタ、私に興味あるでしょ。時々、チラチラ見てるもん。全て、お見通しだがー。」
「違いますよ。」
「ふーん。ねえ、彼女いるの?」
「いないです。」
「だよね。じゃあ、決まりね。来週の土曜日の19:00に、高島屋の金時計前ね。絶対に来てね。絶対だよ!」
 その土曜日に、俺はtomorrowで遊んでいた。デートの時間が迫った時に、あの爺さんがオールインした。オールインとは、全てのチップを賭けることだ。
 爺さんは満面の笑みだった。他のプレイヤーは全員降りた。俺はそれまでの仕草を見るのを忘れて、何も考えられなかった。カードは強かったがノータイムで降りた。
「自信なくても、男ならいかにゃならん時もあるで。」
 爺さんは自慢しながら、手札を開いた。とても弱いカードだった。
 その後、俺はボロボロになり、負け続けた。閉店後に久屋通公園で缶コーヒーを飲んだ。
「ついてこないで頂戴!」
 振り返ると、隣でカップルが痴話げんかをしていた。女は顔を真っ赤にしていた。
「本当にごめんなさい。最後のチャンスを下さい。」
 男が手を合わせた。
「それ、何ですか?ないです。申し訳ございません。これでお終いです。」
 俺は心の中で『お終い』にオールインした。
 それでも、男は土下座した。女は諦めた表情だったが、顔の緊張はほぐれていた。
「これが最後だからね。」
 女は両手を差し出した。
 終電を逃して、途方に暮れていると、雨がポツポツと降り始めた。昼の天気予報では、降水確率は0%だったと思う。
 俺は決心した。翌朝までに雨が上がれば、LOOKに行こうと。

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