NAGOYA Voicy Novels Cabinet

報われた日々

花にとまるモンシロチョウ

昨日までの雨が上がって空は青く澄んでいる。洗濯物を干しながら5階のベランダから下を覗くと、中庭の公園で遊んでいる子供達の姿が見えた。数か月前保育士を定年退職した私にとって、その光景は心に一抹の寂しさを連れてくる。
 空になった洗濯籠を持って部屋に戻ると、点けっ放しのテレビからワイドショーのMCの興奮した声が流れていた。どうやら何処かの偉い先生が世界的に有名な賞を取ったらしい。
「この度はおめでとうございます、長年の研究が認められましたね」
「有難うございます。私を支えてくれた家族や研究仲間、恩師の方々に心から感謝致します」
 画面には、日に焼けて目をキラキラさせた40代位の男性が映っている。
「新種の蝶を探して殆どを海外で過ごされているとか。大変な事もお有りでしょう」
「好きな事をやっているんですから、苦にはならないですよ」
 男性は昆虫学者で、蝶の権威なのだろう。
 そういえば、保育士になったばかりの頃、虫が大好きな園児を受け持った事があった。
 本棚から当時の卒園アルバムを探してページをめくる。古い集合写真の中、私の隣で古手川晃君が満面の笑みを浮かべていた。

 実を言うと、私は筋金入りの虫嫌いだ。だが、教育に携わる者として、子供達には変な先入観を持って欲しくなかったので、園では秘密にしていた。そんな私にとって、古手川晃君と過ごした日々は、苦難と忍耐の連続だった。

「幸子先生、花壇に青虫がいるよ、教室で飼っていい?」
 何とか阻止せねばと説得を試みる。
「晃君、毎日エサをあげないといけないけど出来るの?」
「大丈夫、お母さんに頼んで毎日キャベツを持って来るよ」
 敢え無く失敗、元気な園児達と元気な青虫に囲まれた日々が続く。そんなある日、飼育箱の前で心配そうに佇む晃君の姿。
「青ちゃんが(ちゃん付け!)キャベツを食べないんだ、病気かな?」
「ううん、幼虫から蛹になるの。晃君のキャベツを沢山食べて大きくなったから」
「でも、全然動かないよ」
「何も食べないし動かないけど、中で一生懸命大人になる準備をしているの。だから大丈夫、見守ってあげようね」
 蝶になったら教室で放し飼いとかするのかな、うう、怖い。
「幸子先生見て、蝶になった!」
「モンシロチョウね、ほら、白い羽に黒い模様があるでしょう」
「蝶って他にもいるの?」
「沢山いるわよ、昆虫図鑑があるけど見る?」
 言いながら、本棚の一番奥に押し込んだ図鑑を引きずり出す。なんてこった、折角隠しておいたのに。
「すごい、こんなにいっぱい」
「日本にもいるけど、外国にはもっと沢山いるんだって」
「いいなあ、僕も行ってみたいなあ」
 晃君は目をキラキラさせて呟いた。
 あの頃は毎日がサバイバルだった。
 蝶を外に放した後、しょんぼりしていた晃君はある日、
「先生、僕今度はこれを育てたい」
 そう言って私の手に黒い何かの種を置いた。良かった、今度は植物だとホッとする。
「晃君、これ何の種?」
「種?違うよ、ダンゴムシだよ」
 あの時悲鳴を上げなかった自分を、今でも褒めてやりたい。

「それで、古手川晃先生は暫く日本に滞在されるのですね」
 聞き覚えのある名前が私を現実に引き戻した。
「はい、久しぶりに故郷の名古屋に帰省しようかと。友人や恩師に受賞の報告をしたいですから」
「恩師とおっしゃるのは大学の?」
「もちろん大学や研究室でも素晴らしい先生方に御指導頂きましたが、虫と触れ合う楽しさを初めて教えて下さった方です」
「この番組を見て下さっているかもしれませんね、宜しければメッセージをどうぞ」
「有難うございます。では、中日幼稚園の三田村幸子先生」
 テレビの前で固まる私。三田村は私の旧姓だ。
「先生のおかげです。帰ったら会いに行きます、待っていて下さいね」
 画面の中年男性の笑顔が写真の晃君に重なる。驚きと嬉しさで泣きそうだ。あの、痩せ我慢を重ねた日々は、決して無駄では無かったのだ。
 晃君、会えるのを楽しみにしているよ。
 でもお願いだから、その手に持っている蝶の標本は持って来ないでね。

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