今夜を、人生最後の夜にしよう。
俺はそう決めると、ゆったりとベッドに横たわった。
全てを忘れて、ぐっすりと眠りに就こう。
そして明日の朝、俺はこの救い様のない世の中にオサラバする。
壁掛け時計の針がカチカチと秒針を動かしていた。
午後11時を過ぎた頃。
ベッドの脇に置いてあった携帯電話が着信音を鳴り響かせた。
「はい。もしもし」
一体、何者だろうか。
「もしもし。やはり、起きていたな」
男の声は、どこか親しげな口調だった。
「あの、どちら様ですか?」
「オレだよ」
何だ、こんな時間にオレオレ詐欺か?
いや、ちょっと待て。この声には聞き覚えがある。
しかし、直ぐに名前が思い浮かばない。
「あの、どちら様ですか?」
俺は冷静に、同じ質問を繰り返した。
「ああ、すまない。どうか驚かずに聞いてくれ。いいか、実はな…」
「実は?」
「オレは、少し未来の時間軸から来たお前だ。つまり、オレはお前で、お前はオレ」
まったく悪質なイタズラ電話としか考えれなかった。しかし―――
突如、冷たい電気ショックの様なものが、ビリビリと背中から脳天に駆け上った。
―――この聞き覚えのある声は、まさに俺の声に間違いなかった。
「証拠はあるのか」
俺は、身体中のあらゆる神経を自分の右耳に集中させた。
「証拠は、ある…」
電話の男はそれだけ言うとしばし黙り込んだ。
「明日、お前は自殺するつもりだろう。どうだ、これは誰にも知らせていないことだ。オレは未来のお前だから、よく覚えている」
男はまるで、我が身に起った昨日の出来事を思い出すかの様に喋った。
「お前、どうしてそれを…」
次の言葉を失った俺を見透かす様に、男は話を続けた。
「新型ウイルスのパンデミックは、オレ達の人生を大きく狂わせた。仕事、家族。ささやかに描いていた将来の計画がすべて崩れ去り、絶望と苦しみだけが残った。違うか?」
「ああ、その通りだ。俺は全てを失った。明日を生きる意味すら見いだせない」
「だが、よく考えるんだ…。いいか、今のお前の状況はな、オレにとって10年前の出来事なんだ」
「10年前?」
「そうだ。オレ達は明日の朝、自らの命に終止符を打つか、或いは生きて新しい可能性をつかむか、そのどちらかを選択をする…。オレは、生きる道を選んだ。しかし、今のお前はどうだ?」
「俺は…」
「今、お前がどれ程苦しみ、どれ程この不平等な世の中を恨んでいるのか、よく分かるよ。何しろオレ自身も全く同じ経験をしたんだからな。けどな、この世界は別にお前を恨んだり、呪ったりなんかもしていない」
確かに、この世界が俺を恨んでいる訳ではない。ただ―――
―――そこに希望はあるのか。そもそも俺に10年後の自分が存在するということは、どういうことなのか。
「俺が死ねば、10年後のお前は途端に消えるのか?」
「消えないね」
「なぜだ?」
「過去に起った出来事は変更出来ない。当然のことだが、自らの命を絶てばお前の人生はそこで終わる。それは、新たな時代の幕開けに足を一歩踏み出したオレの人生とは違う人生だ。異なる時間軸に存在するオレ達は、それぞれの人生を歩む」
「パラレルワールド…」
「時間軸のことを、そういう表現で説明することがあるかもな」
「教えてくれ、生きていれば、希望はあるのか?」
「いいか、希望というものは、自分が持つか、誰かに託すもので、有るとか無いとかの問題じゃない。問題は、その希望に固い決意が持てるかどうかということなんだ。忘れるな、未来を決めるのは、お前自身の選択にかかっている。オレがアドバイスできることはそれだけだ。あとは自分で切り拓け」
ピピピ、とデジタル音が電話の向こう側で鳴ると、もう時間か、と男は静かに呟いた。
「おい、ちょっと待ってくれ」
「10年後のお前が、こうして10年前に戻れることを心から祈っている。じゃあな」
ツー、ツー、という無常な響きを残した携帯電話を握りしめ、俺はしばらくの間、立ち尽くしていた。
気が付くと、空は僅かに白みがかり、夜が明けようとしていた。