NAGOYA Voicy Novels Cabinet

雛人形の怪

お内裏様とお雛様

我が家には、代々伝わる雛人形がある。とても立派な七段飾りで、私の祖母の時代からあったその人形は、今は私の八歳の娘のために飾られている。長い時代を生き抜いてきたお人形たちは、令和の今も変わらず凛とした威厳をたたえて、心地よい春の日和に色とりどりの華を添えている。

さて、そんな雛人形だが、立派なだけに飾るのは大変だ。毎年桃の節句が近づくと、夫と二人で額にハチマキをして作業に取り掛かる。骨組みを組んで台座を敷き詰め、たくさんの人形や小物を一つ一つ正しい位置に置いていく。最後に、六曲一双の金屏風を背に、仲睦まじいお内裏様とお雛様を飾れば完成だ。なかなか手間のかかる一仕事で、我が家の春の恒例行事となっている。

しかし、そんな手間をかけて飾った雛人形も、桃の節句が終わったらすぐに片づけなければいけない。というのも、三月三日を過ぎても人形を片付けないと、子どもが婚期を逃してしまうという怖い言い伝えがあるからだ。夫は「そんなの迷信だよ~」と言うけれど、私はどうしてもちょっと気になってしまって、毎年雛人形は速やかに片付けるようにしている。それでも、どうしても忙しくて片づけられない年は、とっておきの秘策を使う。お内裏様とお雛様をくるりと後ろ向きにしておくのだ。母からこの人形を受け継ぐとき、「忙しかったら人形を後ろ向きにして、雛祭りはもう終わりですよ、って教えてあげれば大丈夫」と教わったのである。

今年も雛祭りを終え、遊び疲れた娘を寝かせてから、私はお内裏様とお雛様を後ろ向きにしておいた。
「今年もありがとうございます。娘は元気に育ってます……」
そう口に出して、雛人形を眺めた。私の祖母の時代から、この人形たちはずっと家族を見守ってきたのだろうか。

翌朝、娘を学校へ送り出して一息ついていると、夫が雛人形を見ながらつぶやいた。
「今年は、お人形さん裏っ返してないんだね。ついに迷信信じなくなっちゃった?」
そんなまさか、と思いながら雛人形を見てみると、確かに二人ともこちらを向いている。
「嘘! 私ちゃんと後ろ向きにしたよ」
「え~本当に? だとしたら心霊現象じゃないか」
夫は茶化すように言うが……もしかして。このお雛様には先祖代々の霊が乗り移っていて、私たち家族を見守ってくれているんじゃないかしら。夜中にくるっと振り向いて、私たちの寝顔を見守っていたんだとしたら……
「ひーーっ!」
私が悲鳴を上げたので、夫が笑いながら言った。
「まあまあ。どうせ子どものイタズラさ。学校から戻ったら聞いてみようよ」

しかし、学校から帰ってきた娘はあっけらかんと言った。
「私、やってないよ。ていうかさ、あの人形怖いよ! 何も触ってないのに、勝手に向きが変わってるの私も見た!」
「……」
これには夫も黙ってしまった。
「……まあ、何かの勘違いだったんじゃないのか? あんまり気にすることはないさ」
「私と娘が同時に勘違いすることなんてあるかな?」
「うーん……」
とにかく、その夜も娘を寝かしつけて、今度こそしっかりと人形を後ろ向きにした。夫にも見てもらい、証拠はばっちりだ。

翌朝。雛人形はやっぱりこちらを向いていた。
「これは、お祓いとか呼んだ方が良いのかな……?」
いつもは冷静な夫も、さすがにうろたえているようだ。とはいえ、ご先祖様が私たちを見守ってくれているなら、そんなに危ないことではないかもしれない。娘にも話を聞いてみた。
「ゆうべトイレに行こうと思って起きたら、お人形が反対向いててびっくりしたよ。昨日と同じだった」
やっぱり、気のせいではないらしい。
「でね、かわいそうだったから元に戻してあげたよ」
元に戻してあげた……。もしかして。
「ねえねえ、そのお人形って、どっち向いてた?」
「え、後ろ向いてたよ。だからこっち向きに直してあげたの」
私は、夫と顔を見合わせた。その後はもう大笑い。娘は、急に笑い始めた私たちを見てポカンとしている。きっとご先祖様も大笑いしていることだろう。お内裏様にお雛様、三人官女、五人囃子、色とりどりのお人形たちが、一斉に笑顔になった気がした。

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