NAGOYA Voicy Novels Cabinet

席譲り

茶器と茶筅

 紅葉が終わりかけの名古屋市南部の、とある神社の一角。
 今月も、手水舎で清めのルーティンから。掬った水を掌にかけると、その冷たさで身が引き締まる。もう一度水を掬い、今度は口を清めようとするが、手水鉢の水際にどっしり腰を構えグレーに変色している少し季節外れの蛙が少し気になり、水を手に受け、唇を濡らす程度にしておく。
 ここでいつもながらため息がでる。そう、これから月例の茶会にでるのだが、そこには通例の「あれ」があるのだ。足取り重く、お茶席がある社務所の前までくるが、誰もいないかのように静かである。

 社務所に入り、受付のお役の方の前に進み出て、時候の挨拶をすまし、数寄屋鞄から会費の入った封筒を取り出し、まるで秘め事を話すように、小さな声で「お納めください」と言って差し出す。どうもこの世界はお金のことは、ないことにしないといけないらしい。
 お役の方は、事務的に「15分くらいで案内できますので、どうぞお待ちください」と茶券を渡しつつ、視線で誘導してくれる。視線の先には、いつも「あれ」の会場となる待合がある。
 さてここからがいわば「小牧・長久手の戦」。いかに、自分から動かないかが大事なのだ。ただ、無作法になってもいけない。待合に入りながら、本日の大役を引き受けてくれるような人はいないかとさりげなく見渡す。既に5人程が座についていたが、残念ながら今のところ、皆同じように様子見を決め込んでいるようだ。皆の目が新しく入ってきた自分に向けられるのをびりびりと感じるが、作法に則って、待合にかけてある床の前に進む。
 床の御軸には、「無事是貴人」が掛かっている。確か「ぶじこれきにん」と読むんだよなと思いながら、年末によく見るような気がするが、あまり意味を考えたことがなかった。大過なく一年を過ごせたことに感謝の念を表すとは聞いたことがあるが、それがどう貴人と関係するのかがよくわからなかったような気がする。
 兎にも角にも、今日の大役を引き受けず無事に終われば、「無事是貴人」でないか、そんなことを思いながら、部屋の隅に目立たないように座るが、水をうったようである。少しだけ動きがあったのは、かわいい銀の蛙の帯留をした遠州鼠の無地の着物を着た、まだお茶を始めたばかりのような所作の女性が入ってきたことくらいだった。
 15分が過ぎ、7人で「あれ」が始まるのかと思って、少し冷や汗がでる。
 いよいよお役の方が、待合の外に座って、会場に移動するように促す。でも、誰も動かない。そう、最初に動いた人が、この茶会の「正客」という、お茶席を仕切る大役を勤めなければならないのだ。明らかにこの道半世紀のような方も、顔さえあげようとしない。私とお役の方と目が遭い、強い期待の視線が向けられる。男性だからであろうか。先月その役を背負うがなく勤めたら、散々な目にあったばかりだ。強い拒否の視線を送り返す。お役の方が困った顔をし、また場が硬直する。
 ただ、今日は違った。少しだけ時をあけて、奥の方にひっそり座っていたあの最後に入ってきた遠州鼠の着物の女性が透き通る声で、「このままやと湯が冷めてしまいますし、勉強と思ってつとめさせてもらいます。初めてなので、粗相があっても堪忍してください。」と話すと、すっと立ち上がって、お役の方に視線を送る。お役の方は、ほっとしたように立ち上がった。待合の空気は一変し、みんなが安堵した顔になっている。

 お茶会は、正客のおかげで、粗相どころか和やかな空気が流れる中、滞りなく終わった。
 正客は、「お先」にと黄檗色の毛氈に手をついて参加者に挨拶し、颯爽と席を後にした。
 感謝の言葉をかけようと、後を追うも、すでに社務所を後にしたようで、慌てて草履をひっかけ、外に出るも、どこにも姿が見当たらない。仕方なく、手水鉢の前を通って帰途につこうとしたところ、何か光るものが落ちているのが目に入った。腰を落としそれを拾い上げると、それは正客の銀の帯留だった。落とし物かなと、ふと顔を上げると、手水鉢の上に堂々と座っている黄色のカエルがこちらを見ているではないか。
 思わず呟いた。

 「貴人とは」

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