NAGOYA Voicy Novels Cabinet

ベルベデーレ

レンガ造りの建物

 ちょっと遅めのモーニングでも、と会社通いの時には気付かなかった、赤いレンガ造りの三階建て、緑の蔦が這う美しい壁に縁どられた古い木製の扉を、ゆっくりと開けた。
頭上では高らかにベルの音が鳴り、いらっしゃいませ、と華やかな声に迎えられてすっぴん寝癖付きの私はたじろいだ。影絵を思わせるステンドグラス、ランプシェードの灯。幸いにも店内は薄暗かった。向かって左には、葡萄をモチーフにした優雅(ゆうが)な螺旋階段が上下に続いていて、右手カウンターではドリッパーから珈琲が一滴一滴、砂時計のように落ちていた。奥の大きな木の年輪、一枚板のテーブルに人影がうっすらと見えた。
「ようこそ喫茶ベルベデーレへ。一階は喫茶バーで2階は画廊兼アトリエ、3階は貸し教室で地下にはオーナーの趣味でワインカーヴがあるわ。」
まるでバービー人形がメイド服の着せ替えを楽しんでいるよう。長身細身のウェイトレスさんは、洋画の吹き替えよろしく明け透けに言った。その、落ち着いた雰囲気の喫茶店にはそぐわない陽気さと若さが眩しくて、私は慌ててカウンターのメニューに目を落とした。
「えっと、今日のおすすめ、ホットコーヒーをひとつ。」
私がモーニングサービスを早々と諦めて注文をすると、
「OK、辛くないほうのホットね。」
長い睫毛を大きく揺らして、キュートなウインクのサービス。ちぐはぐな空間に迷い込んで珈琲を待つ間、大きな振り子時計をぼんやり見上げた。錆びかけた針は巳の刻を指そうとしていた。
「ちょいとお嬢さん、こっちにきてモデルになっておくれよ。」
嗄れ声に振り返ると、白髪丸眼鏡のおじいさんが鉛筆を挟んだ手を、おいでおいでとひらひらさせた。
自己都合、とはいえ世の中大体、他者都合だ。唐突に、私が仕事を辞めた話である。昨年の部署異動で新しい先輩、所謂お局様に古典的な方法でいびられた。慣れない環境や仕事に疲れ果てていた私は言葉や態度で八つ当たりする不条理な人間に、反撃する気力もなかった。そしてなぜかそれを上司も同僚も良しとした。あの席では同じ様なことが延々繰り返されるのだから、この国の会社という組織は業が深い。そんな自己都合退職に伴う有休消化中、束の間の自由を手にした私にとっては他者の都合、デッサンモデルは最高の暇つぶしにさえ思えた。
「あたしの顔はもう、見飽きたっていうの。」
口を尖らせたウェイトレスが、香ばしい湯気の立つカップを運んできた。
「今日は少し、陰のある表情を描いてみたいんだよ。君はいつも明るいから。」
老人は鉛の筆先をすり減らしながら、やわらかいまなざしを私の素顔に向けた。
「ぼくはだまし絵と塔の愛好家でね。」
だまし絵との関連はよくわからないが、私は後半部分に興味をそそられて尋ねた。
「塔ってあの、ピサの斜塔とか、パリのエッフェル塔とかですか?」
「そうとも。君はこの辺りの塔ならどれがお好みかな?」
咄嗟に赤と白のタワーが思い浮かんだが、この辺りの塔と言われると、ピンとこなかった。覚王山や八事の五重塔も渋くて味わい深いが、私の好みからは遠い気がした。彼は穏やかに話を続けた。
「そうだねえ、夜なら名古屋テレビ塔がいい。日中は素朴な東山給水塔がぼくの好むところだなあ。」
あっ、東山。東山といえば。
「私、東山スカイタワーが好きです。国道19号、庄内川にかかる橋を南へ車で走るときに見える、紺色のロケット鉛筆みたいなシルエット。会社に通ってた時も、遠距離恋愛で失恋した時も、どんなにくたくたでぐしゃぐしゃでどろどろの時も、あのタワーを眺めると、私いま帰ってきたぞ、って安心感と懐かしさで心が透き通った感じになるんです。」
はい、できあがり、と老人はパンの粉をはらってクロッキー帳をこちらに見せた。だまし絵、ではない。紙の上、私の泣き顔半分には彼の望み通りの影が、もう半分にはあたたかな微笑みの光が差していた。不意の涙で、周りが熱くゆがんだ。頭の中の塔まで、遠く霞み始めた。
「まったく、オーナーは女の子を泣かせるのが得意なんだから。」
はい、サービス、と眩い腕が、おしぼりと小倉トーストの皿を差し出した。

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