NAGOYA Voicy Novels Cabinet

かみさま

神社の境内

 呼ばれている気がしたから。そう姉は言った。呆然としている僕を前にして、「だから来ちゃった」と笑った姉は、そうして僕の隣に腰を下ろした。
 両親が離婚して以来、離れて暮らしていた姉だ。もっと他に言うべきことがあるんじゃないかと文句の一つでも垂れてやりたかった。でもどうせ「ごめんね」とあっさり謝られてしまうのは目に見えていた。
 思えば姉は昔からそうだ。この小さな神社の境内(けいだい)で一緒に駆け回っていたころから、ちっとも変わらない。
「……呼ばれたって、なに」
「ん? んー」
 なんだろね、と姉は湯気をくゆらせるペットボトルを口に運ぶばかりで、僕の問いに答えようとはしてくれなかった。なんだか妙に腹立たしい反応だ。
 けれどこの姉に対して怒り続けることの馬鹿馬鹿しさは知っての通りなので、結局僕は、低く「僕だって暇じゃないんだけど」と吐き捨てることしかできなかった。姉は案の定あっさりと「ごめんね」と小さく笑ってから、「あげる」と、ペットボトルを押し付けてきた。まだまだ熱いくらいの熱を孕むそれに思わず息を飲む僕をじいと見つめて、姉はしみじみ溜息を吐いた。
「あんたも受験生かぁ。大変でしょ」
「大変なのは僕だけじゃないよ」
「うわ、かわいくない答え」
 あんたらしいけど、と続けた姉は、そうして改めて神社を見つめる。黒目がちの瞳が見つめる神社は、月明かりに照らし出されてその輪郭がはっきりと夜の中に浮かび上がっていた。
「……かみさまかな」
「え?」
「私を呼んだの」
ふふふ、と姉は笑う。その笑顔に何故だかどこかがぎゅうと締め付けられるような気がした。かみさま。神様か。小さなころから事あるごとにお参りしてきたこの神社の神様かもしれない。姉を呼んだのが本当にそういう存在であるのだと言うのなら。
「姉さん」
「なぁに」
あどけない子供のように姉が首をかしげる。その頬に受け取ったばかりのペットボトルを押し付けると、姉の肩が大きく揺れた。いかにも驚いたと言いたげにこちらを見つめてくる表情に、少しだけ溜飲が下がる。だから、今回ばかりは、僕の方から折れてあげることにした。
「来てくれて、ありがと」
 折れてあげる、と言いつつ、いかにも不承不承なお礼になってしまった。それでも姉は柔らかく頬を緩める。だから敵わない。
「もう大丈夫?」
問いかけに込められた優しい労りに、目の奥が無性に熱くなった。あんたが聞くなよ、と怒鳴りたくなって、でも。
「大丈夫」
 僕は姉とは違って大人のふりだってできる。姉は僕の精一杯の嘘に、心底安心したように笑った。
「そっか」
「うん」
「ならもういいや。早く帰りな。それ、飲んじゃだめだよ」
 かえれなくなっちゃうから、と、姉が僕の手の中のペットボトルを指先で弾く。
 本音を言ってしまえば、帰れなくなっても構わなかった。姉と一緒にいきたかった。僕はずっと、このひとと一緒にいきたかったのに。
 でもそれを姉は望んではくれない。なんだかんだ言いつつ昔から僕にとても甘いひとで、きっと今もそれは変わっていないのだろう。だから姉は今、ここにいてくれる。姉は甘い。昔からずっと。その意味を、はき違えてはいけない。
 だから僕は頷いて、冷たくなりつつあるペットボトルをベンチに置いて立ち上がった。
「じゃあね」
 どちらからともなくそう言って僕達は別れた。振り返らなくても、姉が最後まで僕のことを見送ってくれていることは解っていた。姉はそういうひとだから。

 ――そういう夢を見た。

 目を覚ましたとき、僕は病院のベッドにいて、ベッドサイドには両親がいた。二人が揃っているところを見るのは、本当に、本当に久しぶりだった。その姿に、自分が事故にあったことをようやく思い出した。
 お前までお姉ちゃんみたいになるかと思った。三年前に離婚したはずの両親は、喜びと涙の入り混じる口調でそう口々に繰り返し、手を取り合って慌ててお医者さんと看護師さんを呼びに行った。
 ナースコールがあるのに。そう呆れる僕の枕元で、黒縁の写真立ての中に収められた姉の遺影が、夢の中と同じ顔で笑っていた。

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