昭和17年4月、岡本忠雄は父親に付き添われて興文国民学校に入学した。
入学式が終わって校門を出るとき、校門の近くに高さ8メートルぐらいの木が生えているのに気がついた。
「父さん、大きな木やね」
「楠だよ。樹齢百年や」
「百年?」
「この学校は百年前にできてな、その時に植えたそうだ」
忠雄は木を見上げた。
「忠雄、木の前で一緒に写真とろか」
父親は何か行事があると写真機を持って出かけていた。父は近くにいた父兄に頼んで写真を撮ってもらった。
昭和18年11月、父親に召集令状がきた。それからは、祖母、母親、弟、妹の5人家族になった。
学校では授業の代わりに、校庭でサツマイモやスイカや大豆などを栽培したり、「縄ない」をしたり、「愛国行進曲」に合わせて行進をしたりすることがあった。
そんななか、忠雄を慰めてくれたのは、父親と撮った写真で、アルバムを開けては何度も写真を見た。
ある日、父親から忠雄宛ての葉書がビルマの戦地から送られてきた。
「タダオ ゲンキデスカ オトウサンハ マイニチゲンキデス 學校デミナサント ナカヨクシテマスカ オカアサンヲダイジニ ツヨクイキナサイ」
忠雄は何度も葉書を読み返した。母親に渡すと、葉書を押し頂いてアルバムに貼り付けた。それから、お父さんが無事に帰るようにみんな手を合わせて祈った。
昭和20年4月、父親の死亡告知書が届いた。5月14日、空襲で名古屋城が炎上し、7月9日には岐阜に一万発の焼夷弾が投下された。
7月18日、全校朝礼のとき、中村校長先生から話があった。
「――大垣もいつ空襲されるかわかりません。そこで今日、皆さんは集団疎開します。疎開先は養老郡の一之瀬村にあるお寺です。担任の先生の指示に――」
全校生徒が三班に分けられた。いよいよ校門を出るとき、忠雄は列から離れて楠に抱きついた。「お前、何やっとんのや」と、友達が冷やかしたが気にしなかった。今や楠が父の代りであった。
忠雄の班は天喜寺で、周りは田圃と山だった。30畳の本堂に30人の児童が寝起きすることになった。
忠雄は、初め、泊りがけの遠足に来たみたいで面白かったが、5日もたつと大垣に帰りたくなった。毎日、ジャガイモと大豆の混ぜたものを食べ、下痢することもあった。
昭和20年7月29日夜、大垣が空襲され、大垣城も学校も市街地も焼け野原になった。母親から、家は燃えたけれど近藤さん宅に避難して、みんな無事だと知らせてきた。忠雄は、楠は無事やろか、と思った。
8月15日、戦争が終わり、忠雄は近藤さんの家で母親と再会した。
「お母さん、アルバム持って逃げたやろ?」
母は黙ってしまった。
「なんや、燃えてまったんか」
「だって、命からがら逃げたんやで。逃げてから気がついたけど、もう遅かったんや。ごめんしてな。母さんだって……」
「なんでや、あんな大事なもん。お父さんの写真や葉書が貼ってあるやないか!」
なんでや! なんでや! と狂ったように泣きわめいているうちに、母親が涙ぐんでいるのに気がついた。
翌日、忠雄は楠を見に行った。水門川を渡ると校門が見えてきた。駆けて行って楠の前に立った。枝という枝が燃え落ち、太い幹は真っ黒に焼けていた。
忠雄は呆然とした。写真も、葉書も、楠も、父の形見が全て燃えてしまった。忠雄は力なく、おとうさん、とつぶやいた。
家へ帰る途中、涙が出て仕方がなかった。大垣城跡の石垣に登り、夕陽に向かって「お父さーん!」と叫んだ。
9月から大垣国民学校の校舎で授業が再開された。
翌年4月初め、忠雄は楠をどうしても見たくなり、授業後に見に行った。
40分ぐらい歩くと学校が見えてきた。校門近くまで来てがっかりした。楠は黒く焼けたままであった。帰ろうとして5、6歩歩いたとき、燃えた木片でもいいから持って帰ろうと思い、楠のそばに行くと、一本の枝から小さな芽が出ているのに気がついた。他の枝にも芽が出ている。
生きとった、生きとったんや!
忠雄は楠に抱きついた。
ツヨクイキナサイという声が聞こえた。