NAGOYA Voicy Novels Cabinet

値引喜怒哀楽

スーパーの商品棚

 男は焦っていた。時計を確認する。19時45分を少し過ぎたころ。いつもとは違う番号の地下鉄の出口を抜けてそのまま信号を1つ渡ったところにあるのが男の目指す目的地だ。
 それにしても寒い。信号を待つ間男は手の平をすり合わせる。マスクからかすかにもれる息が白く夜空に溶け込んでいく。数日前から急に冷え込んできたが男の服装はまだその数日前以前をひきずったままだった。そろそろダウンを引っ張り出さなければと薄手のウールのステンカラーコートのポケットに手を突っ込みながら考えていると信号が青に変わったので男は小走りに横断歩道を渡る。
 到着したのはスーパーだ。間に合った、と男は安堵した。このスーパーの閉店時間は20時。店内はもうほとんど客の姿はなく閑散としており12番まであるレジも多くが閉められておりわずかに2つのレジが開いているだけだ。その二つのレジに入っている店員も心ここにあらずという感じで今か今かと閉店の時間を待ちわびているようだ。
 男がわざわざ仕事帰りにこのスーパーに立ち寄った理由はただ1つ。ヨーグルトである。今朝、朝食を食べている際に男は見つけてしまったのだ。このスーパーのチラシを。そしてそこに本日からの特売品として毎朝自分が食べているヨーグルトが載っているのを。通常1つ118円のものが78円になっているのを。おかげで「1つ78円」という言葉に縛られた男の今日の仕事はまだ終わらないのだ。なので休日を翌日に控えた男は小走りにスーパーに駆けつけたというわけだ。
 このスーパーはたまに利用するのでおおよその商品の配置を男は知っていた。店内に入り買い物カゴを手に取った男の足は真っ直ぐに目当てのヨーグルトが並ぶ冷蔵商品の棚に一直線だ。
 あった。ひと際大きな「78円!」という赤文字で書かれたPOPのおかげで探す手間がはぶけた男はほっと胸をなでおろした。後はこのヨーグルトを5,6個爆買いすれば正真正銘男の仕事は終わるのである。商品に手を伸ばしかけた男の手はしかし、実際にヨーグルトに触れる前に止まってしまった。
 ない。そう、ないのだ。いや、正確に言えば男の目的とするヨーグルトという商品自体はちゃんとあるのだ、プレーン味と白桃味は。しかし、男が毎朝食べるのはブルーベリー味なのだ。何度棚を確認してもブルーベリー味は見当たらない。棚に存在する意味深な3列あまりの空白が全てを物語っているようだった。
 棚の前に呆然と立ち尽くす男の頭上に閉店10分前を告げるアナウンスと「蛍の光」が降り注ぐ。自分の今日一日を否定されたようなそんな悲しい気落ちがBGMとシンクロしているようだった。
 今日一日一生懸命働いた結果がこれか、という怒りが男を包み込む。今日は荒れよう。アルコール9パーセントのチューハイの500ミリ缶を4本くらい買ってピスタチオとサラミと一緒に流し込んで全て忘れてしまおう。
 自暴自棄になった男はアルコールコーナーへ向けて歩き出す。お惣菜コーナー、冷凍食品コーナーを抜けて鮮魚コーナーも通り過ぎかけたその時、男の歩みは突然止まった。視界の片隅に「半額!」という真っ赤な文字で書かれた丸いシールがよぎったからだ。そのまま鮮魚コーナーに立ち寄り、その半額シールの貼られた商品に手を伸ばす。それはサーモンのたたきだった。定価598円の半額なので約300円か。安い。賞味期限は今日までだが今日食べてしまえばそれは関係ない。そのまま男はそのサーモンのたたきを空の買い物カゴに入れた。今日の夜ご飯はサーモンか。
 そう考えると男の足取りは軽くなりそのまま当初の予定通りアルコールコーナーに向かいそこで予定とは違う一番好きな銘柄のビールの350ミリ缶を2本カゴに入れ最後にお惣菜コーナーに戻りこちらも半額になっていたマカロニサラダと揚げ出し豆腐をカゴにインして上機嫌でレジに向かっていった。
 それは小さな幸せなのかもしれない。でも人は色々なことがある毎日の中でそんな小さな幸せに支えられているのだろう。これで明日は良い休日を迎えられそうだ。

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