NAGOYA Voicy Novels Cabinet

名も知らぬアフリカゾウのきみ

アフリカゾウ

 東京から二十年ぶりに名古屋へ帰ってきたとき、真っ先にすべきは東山動物園にきみを訪ね、きちんと挨拶することだったのだ。
 二十年前、僕は妻ともに名古屋の賃貸マンションに住んでおり、夫婦仲はよくなかった。会社の成績も振るわなかった。すべてが負のスパイラルで、手のつけようがないほど僕の内面はカオス状態だった。
 仕事に打ち込むでもなく、趣味に走るでもなく、ただだらだらと毎日を過ごしていた。唯一のペースメーカーはマンションの向かいにある中学校から聞こえてくる教師たちの声だった。なぜか、生徒たちが騒いでいた記憶がない。教師は朝の登校時に校門の近くに立ち、やってくる中学生たちに挨拶をしていた。おはようございまーす。おはようございまーす。独特の抑揚を、僕は妻の前で模倣したものだ。それで少しは夫婦仲も和んだと思う。ときおり夾雑物が混じる。さあさあ、そこ急いだ急いだ。左右をちゃんと見て!これも、僕たち夫婦の笑いの種だった。
 夫婦仲も会社での成績もよくなかったが、なぜか執筆活動は順調だった。とある文学新人賞に入選した。それがきっかけで、文庫のアンソロジーにオリジナルの短編が収録された。だから、出版社が集中する東京への転勤は栄転だと思ったのだ。
 実際には左遷だった。たぶん、会社は不真面目で小説ばかり書いていた僕をクビにしたかったのだろう。東京の上司は僕の理解者ではなかった。僕を誘導尋問して、自己都合の退職に追い込んだ。
 それでもすぐに東京を引き払わず、失業したあともしつこく東京に居続けたのは、単に、ほかに居場所を見つけることができなかったに過ぎない。
 結局、僕は作家としても後が続かず、完全失業者になった。
 フォトフレームに、僕はきみの写真を飾った。妻は言ったものだ。ゾウフェチ。妻は僕をそう呼んだ。不満はなかった。幼い頃から、僕はアフリカゾウが好きで好きでたまらなかった。牙の短い、穏やかな顔のアフリカゾウのきみが、僕には最高の存在だった。この写真も、東京へ転勤になる直前、会社をサボって平日にきみを見に行ったときのものだ。惨状はまったく変化しなかった。しかし、少なくともきみといっしょにいられた瞬間はすべてを忘れられた。
 二十年もの長い無駄な年月を経て、僕たち夫婦はやっと故郷の名古屋にUターンした。
 僕はきみのことを思い続けていた。また名古屋に住めば、いつでもきみに会える。地下鉄でほんの数分の距離に、きみはいる。確かにいる。
 だが、僕の願いをコロナ禍が阻んだ。
 名古屋に帰ってきたのは年明け早々。世間はまだコロナで騒いではいなかった。道行く人のマスク姿もまばら。これが冬でなかったら、マスク姿はほとんどなかっただろう。
 引っ越しのゴタゴタと、細々と収入を得ているライターの仕事で忙しく、きみへの再訪は伸ばし伸ばしになった。そして、東山動物園は閉園した。いつ開園するか、それすらわからない。とたんに僕を焦燥感が襲う。このまま、きみと会えなくなってしまうのか。
 その後、動物園はやっと開園する。しかし、それでも僕はきみに会いに行かなかった。すべては僕の怠惰のなせるわざだ。やはり、いつでも会えると思っていたのだろう。
 そして、令和二年八月十日がやってきた。
 ひとつのローカルニュースが、僕に世の中の非情さ、どうしようもない救いのなさを痛感させた。東山動物園の唯一のアフリカゾウ、ケニーが永眠。僕は泣いた。とっくに還暦を過ぎている男が、アフリカゾウのために号泣した。
 そしてきみの名がケニーであることを初めて知った。
 やっと僕は動物園に足を向けた。献花台の前で、僕は汗みずくになっていた。妻は同行しなかった。妻との仲はとうに修復されていたが、夏に弱い彼女は炎天下できっとダウンすると思って同行の申し出を辞退したのだ。
 夏の炎天下だったからよかった。額から汗が浮き出るのが止まらず、周囲の人は僕が汗ではなく涙を拭っていたことに気づきもしなかった。

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