NAGOYA Voicy Novels Cabinet

780秒大作戦

夕焼けシルエットの男女

俺は走った。とにかく走った。そして、俺は敗れた。
息を整えながら無人のバス停に辿り着いた俺はスマートフォンを取り出して時間を確認する。
18時16分。
俺の通う大学は最寄りに電車の駅がなくてその代わりに大学の敷地内にバス停がありそのバスが最寄りの地下鉄の駅まで俺達学生を連れて行ってくれるのだ。
次のバスの時刻は18時30分。長い。あまりに長すぎる。ため息をつきながらスマートフォンとにらめっこをしていると
「あれ、小島君?」
と声を掛けられたのでそちらへ視線を移す。
「持田さん」
肩口に少し届かない栗色のボブヘアーにちょっと吊り上がった大きな目。それは同じゼミの持田さんだ。
「すごい息切れしてるけど大丈夫?」
「置いていかれたからね」
質問に答える代わりに俺はバスの進行方向を指さす。
「あー、それは…ドンマイだね」
そこで二人の会話は途切れる。気まずい。「小島君」「持田さん」という呼び方が示すように同じゼミとは言え俺は持田さんとは親しくない。というかほとんど喋ったことがない。俺はチラッとまたスマートフォンで時間を確認する。18時17分。困ったな。これは気まずい13分間になりそうだ。
持田さんもあるいは同じことを考えているのかもしれない。カバンからスマートフォンを取り出し何かを確認している。相変わらずの沈黙の中俺はさり気なく持田さんの方を伺う。
白とブルーのボーダーの薄手のニットの上にネイビーのややオーバーサイズのブレザーを羽織ってグレーのワイドのスラックスを合わせている。ブレザーとスラックスというアイテムのフォーマルさをシルエットでカジュアルに中和している。
…ダメだ、こんなオシャレ上級者と話す話題なんか持ち合わせていない。でも何とかしなくては
「小島君はこんな時間まで何してたの?」
沈黙を破ったのはスマートフォンをカバンにしまった持田さんだった。大きな目が再び俺に注がれる。
「ゼミの課題の参考文献を探しに図書館に行ってたんだよね」
「へー真面目」
心にも思ってないような口調で持田さんは答える。
「で、良い本見つかった?」
「それがさ参考文献探すのすぐに飽きちゃって」
「えー、でも分かる」
「野球の雑誌の特集を読んでたらバスに乗り損ねたわ」
「え…それは分かんないわ」
「いやーでも『歴代最強左バッターは誰だ』は読んじゃうでしょう」
「じゃあ…バス乗り損ねたのも自業自得だね」
「…」
そこで再び二人の会話は途切れた。
持田さんは空を見ながら何かを思案しているようだ。そして意を決したように三度その目をこちらに向ける。
「小島君は歴代最強左バッターは誰だと思う?」
それは全く予期していない問いだった。
「イチロー…かなあ」
頭を回転させて何とか俺は地元が生んだスーパスターの名前を答える。しかしその模範解答に持田さんは不服のようだ。
「イチロー…ありきたりだね」
その言葉は俺の心に灯る野球の火をくすぐった
「じゃあ持田さんは誰だと思う?」
持田さんはカバンからスマートフォンを取り出し素早くタッチをした後、俺に得意げに画面を見せてくる。それはバッターボックスを横から撮った写真でそのバッターはピッチャーがいるであろう方向を鋭い目付きで睨んでいる。
「ヤクルトの…川端?」
「そう、慎吾!」
そこから俺達、というか持田さんはひたすら野球の話を続けた。持田さんは友達に連れられて行ったナゴヤドーム ー 今はバンテリンドームというらしい ー で野球と川端に出会ったこと。早く今の状況が落ち着いたら神宮球場に行きたいということ。とにかく川端が好きらしい。川端の流し打ちにメロメロだそうだ。そんな話を続けていると試練の13分間は終わりを迎えたようだ。
「同じゼミに野球の話が出来る人がいて良かった」
そう言った時の持田さんは今日一番の笑顔だった。
「また慎吾の話聞いてねっ!」
俺達はまだ誰も乗っていないバスに乗り込んだ。

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