失恋をした翌日の朝は、いつもより空気が澄んでいる。目元は、泣いた代償に腫れてしまっているけれど、気持ちはそこそこ、明るくなった。メイクをすればごまかせるだろう、そしてこれが、女子の特権。通勤路の紅葉も、随分鮮やかになってきたなあと見上げる先、青空もまた美しい。車道を横切っていく車やバイクの音は、きっといつもと変わらない。なのになぜだか、新鮮さを覚える。
会社まで間もなく、というところで後ろから声をかけられる。若い女性の弾んだ声。聞き慣れた声の主は、会社の後輩・川岸ちゃんだ。
「おはようございます、先輩。」
何も知らぬ彼女の変わらない態度は、私のなかにあったもやもやを少しだけ晴れさせた。笑顔をつくろって挨拶を返そうとした矢先、彼女は目を少し見開いて、開きかけていた私の口へ言葉を押し込んだ。
「先輩、なにかあったんですか? 酷い顔してますよ?」
随分と失礼な物言いに、私の口は自然と閉じる。閉じるだけに飽き足らず、唇が無意識に震えるのを自覚した。洞察力が鋭い彼女は、たった一瞬、私の表情を見ただけで察してしまったのだろう。
車道から響くクラクション。この通りはいつもと変わらない。変わったのは、私と彼の関係だけ。悲観的になったり、後悔したり、そういうのは昨晩すべてシャワーと共に流したはずだった。しかしそれは、思い込みに過ぎなかったらしい。
「先輩、とりあえず、行きましょ。」
覚えているのは、川岸ちゃんの小さく、頼もしい背中だけ。
会社の三階にある無人の休憩室。椅子に座って、気付けばテーブルに暖かいコーヒーの入ったカップが置いてあった。手際よく、器量よく、愛想よく、愛らしい。そんな後輩の気遣いは、余計に私の涙を誘う。情けないことは分かっていたが、このままでは仕事もできない。ならばいっそ、すべて川岸ちゃんに話そう。
『元』彼は、付き合い始めたばかりの頃から、わりと平気で酷いことを言う人だった。モラルハラスメント……そういう部類の言葉を日常的に向けられていた。思えば私は、そういう「男運」や「人を見る目」が恐らく足りていなかった。歴代の彼氏も、その全員が似たようなタイプだったことを今更ながら自覚する。
『お前のことは好きだけど、結婚相手としては見られない。』
こんなことも言われていたなあ、と川岸ちゃんに話しながら気付かされる。その言葉を聞いたその日のうちに関係を終わらせていたら、私もこんなに傷付かなくて済んだのかもしれない。とはいえすべて、手遅れだ。酷い言葉を言われていたのに、反面、なぜだかとても優しい面があったのは、彼の計算だったのか、なんなのか。それすらもう聞けないのだ。
テーブルには、私の鼻水が大量に付いたティッシュの残骸。コーヒーはとっくに冷め切って、まだ私から飲まれることを待っている。川岸ちゃんは、始業時間までもう間がないのに、急かすことなく、慌てることなく、私の背を撫でながら聞いてくれている。こんなに女性らしい人だったら、きっと男も結婚したいと言うのだろう。何が最大の原因なのかすら教えてもらえなかった私は、きっと一生、こういうことを繰り返す。それを突きつけられるたび、私は少女のように何度も涙を溢れさせてしまう。
不意に、川岸ちゃんの声がした。常より少し低い、落ち着いた声色は、私を諭すように、まるで教師が生徒へ伝えるように、言葉を紡ぐ。
「先輩、大丈夫ですよ。縁がなかっただけです。そんな酷い人のために泣くなんて、涙がもったいないです。先輩に相応しい人は絶対にいる。でも、泣くのを我慢するのは体に悪いので、今はたくさん、泣いてください。私がそばにいますから。」
年下で、後輩で、同性の川岸ちゃんの暖かい手が、背中をさすって、言葉が鼓膜へ届くたびに、私はまた、涙腺を刺激される。今は、うんと泣いてしまおう。それから、吹っ切ったら、もっと自分を磨いて、いい男を捕まえよう。あと、川岸ちゃんには今度、美味しいご飯をご馳走しよう。そんなことを考えながら、二人で始業のチャイムを聴いたのだった。