NAGOYA Voicy Novels Cabinet

青空

晴れ空

 線路脇には川が流れていて、その横に植えられた木々が緑色に息づいている。
 午後1半過ぎの散歩者は、老人やベビーカーを押した母親と小さな赤ん坊、それから僕。遊歩道は石畳になっていて、へこんだところに昨日の雨の余韻が残る。
 木曜日、晴れ、気温24度、暑さと温かさのちょうど境目。本格的な夏はもうそこまできている。木々や虫たちはもう待ちきれないみたい。陽射しがきもちよくて、こんな日ばかりが続くなら僕はひとりでも大丈夫だと思える。空を見上げてごらん、そこには青空。僕の元気のない心に沁み込む果てしない青い空。
 だんだん、みんな年を取っていく。どこを見渡したって例外は存在しない。こうやって平日に、僕はすることがなくて散歩をしていて、Tシャツに汗がしみて、髭を剃るのが面倒くさくて、髪の毛をいじるのもいやで坊主。数年前に越してきたワンルームマンションが僕の生活の中心で、深みも厚みもない部屋の様子は、最近誰も訪れないことを物語るだけ。僕はひとりで生活して、心から誰かを求めているのに、本当は手に入れるのが怖かったりする。玄関は薄暗くて、脱ぎっぱなしの靴はすべて僕の物。習慣、そういうことに追い立てられるだけで味気のない毎日。
 仕事を辞めたのは自分の責任。先輩たちについて行けないのは自分の能力不足。恋人はそんな僕など求めていなかった。求めてないのだから去っていくのは当たり前だ。
 遊歩道のベンチ。犬と散歩する若い女性。半袖からのぞいた腕は雪のように白くて眩しい。ベビーカーから赤ん坊を抱き上げてキスをする母親。僕の頭に、幸福の二文字が浮かんで漂う。幸福、あの母親。キス、抱擁愛情、少しだけ涙、ぐるっと回ってまた幸福。
 今度の日曜日は友人達の結婚式で、ふたりが求め手に入れようとするものが僕には最近よく分かる。幸福。抽象的なものを形にしようとする彼ら。僕がいた家族の団欒、キッチンのテーブルに重ねられた家族分の皿、飲みかけのグラス、きっとあのとき、僕は幸福だったんだ。幸福、誰だってほしい。幸せの形、それが人それぞれ違っていてもみんな幸せになりたい。僕は今、そういう連鎖から外れてしまっている。ただそれだけ。求めていないわけではない。ただ、外れてしまっているだけなんだ。そうだろう? 答える人は誰もいないのに僕は何度も何度も尋ねてしまう。
 四捨五入って言葉が嫌いになった。四捨五入してみると、僕は30歳になる。忙しくもないのに忙しいふりをして習慣に流されながら、続けているアルバイト。それだけが僕の生活の頼りで、何にもならにことは分かっているけれど止めるわけにはいかない。
 僕は行き場を失ってしまったのか。目標なんて言葉は忘れてしまったのか。遠くで故郷が呼んでいる。やっぱり故郷は遠くで思うものなんだ。故郷を思いながら、僕は貯金を崩してここでの暮らしを選んでいる。逃げてはダメだ、と少年マンガに教わったのは20年も前のことか。僕はいま、どんな感じなんだろう。僕は戦っているのだろうか。
 日なたを駆けまわる子供たち。母親がベンチから温かく見守っている。向かいに座る老人は何やら文庫本を熱心に読んでいる。
 友人の結婚式にいくら包もうか。僕にはまだ遠い幸福に近づいて行く彼らがうらやましかったり、そうでもなかったり、どうでもよかったり、でもやっぱり友人だしなって思ったり、線路を行く電車の音が聞こえたり、商店街がざわめいていたり、散歩者たちの談笑が聞こえてきたり、風が吹いたり、木々が揺れたり、花が散ったり、犬が吠えたりして、時間はとことん流れて行く。結局僕はここにいて、生きていることを強く実感しているんだなって思う。
 ベンチに腰掛けてみる。背もたれに寄りかかってみる。空を見上げてみる。青空に飲み込まれたいと思う。想像だけが先走り、僕は取り残されてしまう。だから、まだもう少し青空を見上げながら、呼吸をしていたい。そうすれば、僕はまだ大丈夫って思えるから。

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