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運の良い!

介護士

介護の仕事は大変です。夜勤明けのある朝のことでした。勤務終了前の巡回時、ある入所者さんの居室から芳しい匂いがします。
 床には大きな排泄物が転がっていました。
 さぁ、これを掃除して消毒すれば勤務終了、そう思った瞬間です。私の頭に生暖かい感触が・・・ 振り返ると両手を便で汚した入所者さんが笑顔で立っていました。
 入所者さんの清拭と居室の掃除を終え、洗面台で頭を洗っている時、Aさんの言葉が脳裏に浮かびました。
「運がついたね。きっと良いことがあるわ」
 Aさんは私が介護の世界に入ったばかりの頃に担当した女性の入所者さんでした。

 今から十一年前の冬。病気療養を終えた私は、再就職しました。職場はハローワークで紹介してもらった介護施設。
 しかし、三十代も半ばを過ぎ、家事経験の無かった私にとって、介護の現場は戸惑うことばかりでした。洗濯物の仕分けを間違えたり、おむつのあて方が悪かったり・・・と。その都度、先輩から手厳しく注意されました。
「いつも、すみませんと言うけど、何度、同じ間違いをするの!」
 先輩と言っても、十歳近く年下の人からの注意は身にこたえました。毎日のように叱責されている私を励ましてくれたのがAさんでした。
「あんなのに負けちゃだめよ」
 先輩職員がいない時、Aさんはそう言ってくれました。
 お嫁さんの話によると、Aさんは幼い頃、両親を亡くして、ずいぶんと苦労されたそうです。それゆえに、どんくさい私の気持ちを察してくれたのかもしれません。
 Aさんは車いすの生活でしたが元気いっぱい。歌を歌うのが好きで、よく美声を聞かせてくれました。特にお好きな歌は「燃えよドラゴンズ!」。一緒に入所している夫とともに熱心なドラゴンズファンでした。そのファン歴は半世紀以上。夫のBさんとの初デートは、中日球場で行われたタイガース戦だったそうです。
 どんな時でも前向きで、物事を明るく考えることができるのもAさんの魅力の一つでした。私がAさんのトイレを介助した時のことです。パッドを外したら、軟らかい便が私の頬に飛びつきました。
「運がついたね。きっと良いことがあるわ」
 Aさんは笑顔でそう言ってくれました。私もその言葉に思わず微笑みました。
 そんなAさんが体調を崩されたのは、翌年の夏前でした。夫のBさんが亡くなったのがきっかけでした。食欲も落ち、病院に入院することになったのです。
 一ヶ月後、施設に戻ってきたAさんはまるで別人でした。表情は暗く、歌声も聞くことはできませんでした。
「以前のように施設で、明るく過ごしてもらいたい」
 家族はそう願っていました。私も同じ思いでした。そこで考えたのは、回想法を活用したケア。
 回想法とは、懐かしい思い出や親しみのある物に接することにより、脳を活性化させるケアのことです。Aさんにとっての回想法は、中日ドラゴンズでした。
 居室にラジオを置いてナイター中継を聴いていただき、ドラゴンズが勝った翌朝は、スポーツ新聞の一面を居室に飾りました。
 少しづつ回想法の効果も出てきたようで、ドラゴンズが勝った翌日は、食事摂取が増えることもありました。また、耳元で「ドラゴンズ、勝ちましたよ!」とささやくと微笑んでくれました。しかし、病状は一進一退で予断を許さないものでした。
 その年、ドラゴンズは好調で、熾烈な首位争いをしていました。そして迎えた十月一日、首位を争っていたタイガースが負けたため四年ぶりのリーグ優勝が決まりました。
「ドラゴンズ、優勝しましたよ!」
 Aさんに、そう言うと、涙ぐんで頷いてくれました。Aさんが亡くなったのは、それから一週間後のことでした。
 

 夜勤の仕事が終わって帰宅すると、くたくたです。お風呂に入り、着替えるとすぐに眠りにつきます。どのくらい眠ったでしょうか? インターフォンで目を覚ましたら、宅配便でした。荷物は、信州そばの詰め合わせ。そう言えば、三ヶ月前に「道の駅」の懸賞に応募したことがありました。
「運が良いことあったわ」
 脳裏にAさんの笑顔が浮かんできました。

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