NAGOYA Voicy Novels Cabinet

名古屋の田舎に住むということ

田舎の風景

  高校を卒業して看護短大への進学が決まった私は、迷わず入寮を希望した。
一宮市在住の私にとって、名古屋市内の学校は通学圏内だったが、当時私は一刻も早く家から出たかった。
 母子家庭の上に母親と折り合いの悪かった私にとって、家を出るということはまさに監獄からの脱出だった。
 入寮案内を見ると、住民票を寮に移すことが義務付けられていた。私の胸は高鳴った。
母から解放され、四月からは「名古屋市民」になるんだ。
 荷物を先に送り、電車で最寄りの高蔵寺駅に降り立つ。
試験を受けに来た時にも思ったが、とにかく景色が雄大で、ほんとにここで良いのか?と不安になる。
 高蔵寺駅は春日井市だが、東谷橋を一つ渡ればそこはもう名古屋市内、短大の住所は確かに「名古屋市守山区」。そう、私は名古屋市民なんだ。
 たとえ眼前に庄内川が滔々と流れ、緑豊かな東谷山がそびえていようとも、ここは名古屋市なんだから!

 新生活に胸を震わせ短大の門をくぐる。
東谷山の麓にある短大の門までは傾斜30度の坂道、門から寮までは更に心臓破りの傾斜45度の坂道が続く。
 ふと見れば、駐輪場には原付が並んでいる。どれも名古屋ナンバーのプレートが付いていた。
 息を切らせて寮にたどり着くと、寮母さんが出迎えてくれた。
「荷物はお部屋に上げてありますよ。」
部屋番号を告げられて、ドキドキしながら階段を上る。
 看護短大の女子寮は二人部屋になっていて、新入生は先輩と組むことになっているらしい。
 ノックして入ると、中には誰もいなかった。
荷ほどきをしながら、実感する。
(今日からここで暮らすんだ。私は解放されたんだ。)
私は自由になったという甘美な実感に浸っていた。
 夜になると先輩が戻ってきた。
同室の先輩は小柄でおしゃれで気さくな人だった。
簡単な挨拶から雑談を交わす。
「うちは山口から来よるんよ。」
山口弁を隠そうともせず、先輩はそういって興奮気味に続けた。
「びっくりしたっちゃろ?名古屋っちゅうけん日本三大都市やって期待しよったけー、着いて見りゃ、うちの住んどった山口より田舎っちゃ!騙されたっちゃね!!」
 ああ、そうですよね…
ここは名古屋市守山区、緑豊かな東谷山の中腹。
瀬戸と春日井のちょうど境目、名古屋の僻地ですからねぇ…。
 今日何度も喉元まで出て来ては呑み込んだ言葉が、先輩の一言で具現化された。
「スタイリッシュな都会をイメージしてきたら、とんでもないド田舎じゃねーか!って話ですよねぇ。」
先輩は頷きながらも付け加えた。
「じゃけん、慣れよ慣れ!住めば都っちゃ。」

住めば都。そう、寮生活は楽なのだ。
 名古屋市のど真ん中を通って電車で通ってくる通称「通生」はばっちりメイクにキラキラコーディネートのいわゆる「スタイリッシュな都会組」
片や同敷地内の坂の上から授業開始ギリギリに坂を駆け下りてくる通称「寮生」はノーメイクにボサボサヘア、さらにほぼ部屋着という女子力をかなぐり捨てたいでたちで、まさに「人の目を気にしない田舎組」
『名古屋に住むから都会人になるんじゃない。洗練された生活をしている人を指して都会人って言うんだ。』これは通生と寮生を見比べて言ったある教授の名言だ。
 こうして自由で緩い寮生活にどっぷり浸かった私は、人の目を気にしすぎなくなり、物理的な距離を置いたこともあって母との関係も改善された。

 卒業後、地元に戻り看護婦として仕事を始めた私は、院内研究の資料を探すため、三年ぶりに母校を訪れた。
 私の卒業した短大は愛知県立大学に改組され、とても恐れ多くて毛玉まるけの部屋着では入れないような立派な学び舎に建て替えられていた。
 坂の上の寮があった場所は更地となり、今は駐車場として整備されていた。
「この校舎だったら、先輩も『騙されたっちゃ!』とは言わなかったかなぁ。」
新校舎を見上げてそう呟き、心臓破りの坂を見上げる。

 それでも私は坂の上から駆け下りてくるボサボサ髪の寮生たちと過ごした三年間を思い出しながら、名古屋の田舎暮らしも悪くなかったなぁと心底思うのだ。

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