春は恋の季節だから、キューピットにとって一年で一番忙しい。それにもかかわらず、エリートのXは女に見とれてビルに激突して、あげくに入院してしまった。
「あいつは何をやってるんだ! 二時に矢場町のホテルで仕事があるのに」
所長の叫び声がキューピット会館に響いた。そこには入社したてのMしかいない。地上まで三十分かかるが、もう一時二十分。
「あと十分か。しかたない。あいつに頼むか」
新品のスーツを着たMは、つんのめりそうになりながら所長の所へ来た。丸眼鏡をずりあげた姿は高校生ぐらいに見える。
「M、仕事だ。地上へ行ってくれ。但し、着いたら三十分で仕事を終わらせないと毒を吸い込んで消えてしまうぞ。それに矢に刺さると、人間になってしまうから注意しろよ」
「そ、そんな! ぼく、まだ……」
Mは体を震わせる。この仕事が命がけだとは思っていなかったらしい。所長は資料と、キューピットの心得本と弓と矢を手渡した。
「研修もまだだったな。だから特別に矢を四本持っていくように。地上に着くまでに本をよく読んでおきなさい。健闘を祈る」
こうしてMは所長に追い立てられた。
地上に着いたのは二時。資料によると、担当する小野裕太と篠山麗は、このホテルのスカイラウンジにいるようだ。
ラウンジには六十名ほどのお客がいて、Mにだけ、電光掲示板のニュースのように、胸の所にその人の名前が流れて行くのが見える。やっと、窓際で小野裕太を見つけた。
「優しそうな人だな。キューピットなんていなくても恋ができそうなのに」
矢は上半身に当てないと効果がない。人が多くて矢を射る場所が見つからないので、すみっこのテーブルの上に乗った。そのとたん、体がぐらりと揺れて頭から床に落ちた。足を踏まれて、矢まで折られてしまった。人間にはMの姿が見えないからだ。
「まいったな、どうしよう」
矢はあと三本。本によると、弓は垂直に矢は水平に構えるらしい。やってみたが、足が痛くてちゃんと立っていられない。
Mは足を引きずりながら柱に寄りかかった。矢を放つと、今度はうまく小野裕太の胸に刺さった。けれども、彼は何事もなかったようにワインを飲んでいる。キューピットの矢は痛くないらしい。
Mは、ふうっと息をついた。二時十六分だ。
「あとは、お嬢さまみたいな名前の篠山麗か」
お客の名前を確認していく。秋山、小池、鈴木、佐々木などで、篠山はいない。時計を見た。タイムリミットまで七分。
「だったら、従業員だ!」
フロアーにいた女性は三人。弓を抱えて走り出したが、ずるずる歩いているようにしか見えない。髪をアップにしている人も、背の高い人も違う。最後に、小柄な人の名前を確認した。
「篠山さんだ!」
Mは叫びながら矢を放った。ところが、手が汗ばんでいるのに気づかなかった。矢は何とか篠山麗の腕に当たったものの、汗ですべって、自分の指もかすめていた。
篠山麗と小野裕太の胸にハートのマークが灯った。
「よかった! 成功だ」
あと二分。帰ろうとした矢先、Mは崩れるように倒れてしまった。指先からは血がぽとり、ぽとりと落ちていく。
「M、よく頑張ったな」
そこに入院していたXが来た。Xはミイラのように目だけを出して、頭と左腕とお腹は包帯でぐるぐる巻きになっている。
Mが地上に来てから三十五分。羽が消えそうだった。Xが解毒剤を飲ませて指に薬を塗ると、少したって羽がよみがえりMは目を覚ました。
「あれっ、Xさん、どうしてここに?」
「おれのせいで迷惑かけたからな。まだ体中が痛いけど、助けに来たんだよ」
「どうして、助かったんですか?」
「解毒剤とぬり薬でね。所長が忘れたから持って行ってくれと、病院に頼みに来たんだよ」
「所長ったら、ひどいじゃないですか! ぼく、消えるか人間になっていたんですよ!」
Mは、かん高い声をあげた。
「まあ、まあ」
と、Xが背中をなでる。
その頃、キューピット会館では、所長が大きなくしゃみをしていた。