あの日、お母さんは僕に言った。
「ひとりで生きていくことを選ぶのも、誰かを選んで人と一緒に生きていくことも、多分どっちも幸せだ」って。
「私はひとりで生きていくことを選んだけど、あなたも自分で決めなさい」って。
あれからずっと考えている。
ひとりで生きていくより、誰かと暮らしたい。
とはいえ、相手のあることだ。
僕ひとりの都合というわけにはいかない。
そう思っていた矢先、彼女に出逢った。
一目見て、「彼女だ」と思った。
理由?
そんなの簡単さ。
彼女も僕を好きだからだ。
そんなわけで、僕は今、待ち伏せをしている。
彼女はいつもこの時間に帰ってくるんだ。
小さな白い車で。
緊張しているのだろうか。
彼女を待ちながら、無意識に何度も髭を触ってしまう。
陽が落ちても気温が下がる気配はない。
彼女だ。
ここのところずっと見ているから、車の音まですっかりおぼえてしまった。
今日もいつものように少し疲れた顔で、車から降りてくる。
僕の顔はおぼえているはずだ。
ここのところ、毎日会っている。
勇気を出して、今日こそ話しかけてみよう。
そろそろと彼女に近づく。
目があったのに、彼女は目をそらして、小走りで去っていく。
おかしいな。
僕に気がついたはずなのに。
「ねえ、待ってよ」
僕の方をチラッと見るくせに、やっぱり立ち止まってくれない。
なんでだろう。
僕は君とならうまくやっていける気がするのに。
追いかけながら考える。
喉がカラカラだ。
昨日から何も食べていない。
「ねえ、待ってってば!」
喉が渇いていたせいで、掠れた声がでる。
それでも彼女を振り向かせるには充分だった。
びっくりしたように立ち止まった彼女が、「ついてこないで!」と叫ぶ。
一瞬怯んだ僕を置き去りにして走り出す。
静かな住宅街に彼女の足音だけが響く。
諦めてたまるか!
彼女が玄関のドアの前に立った時、僕はもう一度「ねえ」と呼びかけた。
驚いた彼女が息を飲んだのがわかった。
ゆっくり振り返る。
僕は黙って彼女の目を見つめる。
気持ちが届くように。
長い沈黙の後、彼女が口を開く。
「どうしてついてきたの?困るの、こういうの本当に困るの。帰ってほしい」
そう言われたって引き下がるわけにはいかない。
そもそも帰るところなんてないんだ。
何か言わなくてはと思うけど、何を言ったらいいのかわからない。
僕を見てくれない彼女と、言葉が出ない僕。
だめだろうか。
気持ちは届かないだろうか。
ひとりで生きていくことを選んだと言ったお母さんの顔が目に浮かぶ。
不意に彼女と目が合った。
「もしこの家に足を踏み入れるなら、私は一生ここからあなたを出さない。
あなたが死ぬまで」
僕が、死ぬまで・・・?
彼女のおでこが汗ばんでいる。
そうか、僕だって覚悟を決めなきゃいけないんだ。
「うん、いいよ。それでもいいんだ。君と一緒にいられるなら」
小さなため息をついた後、諦めたように彼女が扉を開けてくれた。
そろそろと家の中に足を踏み入れる。
「お邪魔します・・・」
僕が家の中を眺めていると彼女がこう聞いた。
「おなか空いてるんでしょ?」
なぜ知っているんだろう。
戸惑う僕をよそに彼女は食事を用意してくれた。
食べていいのか迷ったけれど、空腹には勝てなかった。
壁にもたれかかった彼女が、僕を見つめているのを感じながら、黙々と食べる。
「ごちそうさま・・・」
そばに行ってもいいだろうか。
様子を見ながら、そろそろと彼女に近づいていく。
「もうだれかと暮らすつもりはなかったんだけどな」
スマホの画面を見ながら彼女がそう呟いた。
そうして僕は、彼女の家で暮らすことになった。
僕は自分で選んで、この人と生きていく。
フカフカの寝床と、きれいな水。
安心してごはんが食べられる僕の家。
「名前」ってやつもつけてもらった。
外での自由は失ったけれど、窓から見える景色があれば充分だ。
ここで彼女と生きるんだ。
小さくてあったかい僕の世界。
あ、彼女が僕の名前を呼んでいる。
家猫も悪くない。