NAGOYA Voicy Novels Cabinet

今いる場所で

虫メガネで手相を見ている

 衣替えもとうに終わり、来るべき夏の予定に人々が胸踊らせるそんな7月初旬の午後。ここ「ミント」には一時の涼を取ろうと薄着に身を包んだお客たちが続々と足を運んでいる。
「奈緒ちゃん、ナポリタンあがったよ。」
「はーい。」
 マスターの威勢の良い声に負けじと私は声を張り上げて返事をする。私、児島奈緒が勤める「ミント」は老舗の喫茶店である。大学1年生である私はこの春から「ミント」のウェイトレスを勤めている。元々食べることが大好きな私は是非飲食店でアルバイトをしてみたいと心に決めていたのである。この店のマスターの作る料理は何を食べてもそれはそれは美味しいのだ。Aランチのカツ丼から始まってBランチのポークソテー、Cランチのミートスパゲティの全てがそれぞれに美味しいというのは熟練の腕の成せる技だろう。
 ランチの時間帯も終わり、お客も引ける午後3時。大体いつもその時間におばあさんはやってくる。
「ホットコーヒーお待たせいたしました。」
 私はいつものようにそっとブレンドと伝票を差し出す。そのままゆっくり立ち去ろうとした瞬間声をかけられた。
「あなたに一つお願いがあるのだけど、手を見せて下さらないかしら。」
 いつもは簡単な挨拶をするぐらいの間柄なのでこの申し出を私は意外に思ったのだけど、素直にそっと手を差し出す。おばあさんはバッグの中から虫眼鏡を取り出すとふむふむと私の手の平を観察し始めた。
「この一番上の太い線ね。感情線というのだけどこの線がとても長いわね。このタイプは情熱的な人と言われているわ。そしてここの運命線、中指の方向に縦に向かっている線ね。これはちょっと弱めね。何か心積もりができていないことがあるのかしら。女の子ならやっぱり結婚線が気になるわよね。この小指の付け根の下にあるいくつかの線。うん。あなたしっかり入ってるわよ。」
「手相にお詳しいのですね。」
「独学だからすべてを真に受けないで欲しいのだけど、いつもどこか元気のなさそうなあなたに少しでも元気を出してもらいたくてね。」
 そうなのだ。図星を突かれて私は言葉に詰まる。こんなご年配の方に相談するには小さすぎる悩みなのだけど、私にはどうにも動かしがたい一つの後悔があった。私はこの春受験に失敗した。入りたかった第一志望の国立大学に落ちて二番手の私立大学への入学を決めた。浪人という手も考えたのだけどどうにも耐えられそうにないだろうと出した苦渋の選択だった。思えばそれまで特に叶えられない望みもなく、順風満帆に世間を渡ってきた自分が生まれて初めて経験した挫折だった。悔しいという気持ちがないといえば嘘になる。そんな暗い考えを巡らせているとおばあさんはこう語りかけてきた。
「今は確かに何か悩みがあるのかもしれない。それでも時が解決してくれることってたくさんあるから。あなたみたいな若い娘が下ばかり向いているのはどうにも見てられなくてね。思わず知らずのうちにお節介を焼いちゃった。」
 おばあさんは茶目っ気たっぷりにぺろりと舌を出した。
 時が解決してくれる、か。月並みな回答だと思った。でもこうやって気にかけてくれる人がいることはいいものだなと思う。正直なところ今すぐに現在の大学を好きになれるとは考えられにくい。しかし与えられた場所でやっていくしかないのも確かなことである。
「ありがとうございます。」
 私は精一杯の明るい声でお礼の言葉を伝えたのだった。いつか今いる場所を好きになれるといい。私はおばあさんの帰りを見送った後、祈るような気持ちで一人ホールに立っていたのだった。
 職場からの帰り道。私は少しだけ楽しい気持ちでとある店のショーウインドーを見ていた。そこに飾られた水玉模様の美しいワンピース。そのワンピースに袖を通した自分の姿を想像してみる。髪も高く結ってヒールのある可愛いサンダルを履いて。急にウキウキとした気持ちになってきた。剥き出しの二の腕をさすりながら、
「私はまだまだこれからよ。」
と小さく自分に呼び掛けたのだった。

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