NAGOYA Voicy Novels Cabinet

ドライアイスが溶けてゆく

菊の花

 中学生活も残すところあと3ヶ月とすこしになった12月の末のことだった。うっすらと線香の香りが漂う祖母の家の和室で、わたしは母に促されて座布団に座った。目の前には、布に包まれたドライアイスを腹に乗せた祖母が横たわっていた。母がそばに寄ってきて、祖母の顔を覆っていた白い布を取り払う。目を瞑った祖母は本当にただ眠っているようだった。長く病院で生活していた祖母とは、しばらく会っておらず、その死に際にも、学校にいて間に合わなかった。祖母のことが嫌いというわけでもない。けれど、病院が遠いことや、高校受験を言い訳にして、会いに行くことをしなかったのだ。どうして会いに行かなかったのかは自分でも分からない。物心ついた時にはもう母は離婚しており、近所に住んでいた祖母と働き詰めの母に育てられた私は、家族というものに対して少し薄情になっていたのかもしれない。いや、それも言い訳だろうか。
 母がファンデーションを差し出し、祖母の化粧をするように言った。どうして、化粧をする必要があるのだろうか。わたしが不思議に思っているのを察したのか、「お母さん、人前に出る時はいつもしっかり化粧してたのよ」と母はいった。その顔は、いつも通り少しやつれていたけれど、いつもより引き締まっているように見えた。その表情につられるようにしてファンデーションや口紅を受け取ると、母は鳴っていた電話を急いで取りに行った。渡されたファンデーションは母のお気に入りのブランド品だった。わたしが使おうとするとひどく不機嫌になるのに、今日はあっさりと渡されたことが不思議だった。それの蓋を開け、ファンデーションをスポンジにつけて祖母と向き直った。目尻に集まる皺や、鼻の左側にある大きな黒子はどうみても祖母なのに、何故か他人にも見えた。しばらく会っていなかったせいだろうか、思い返せばしっかりと祖母の顔を見たことがないからだろうか、こんな顔をしていたのかと思った。祖母の頬にスポンジを近づけると、頬から微かに発せられる冷気を感じた。
その瞬間、死という単語が頭に浮かんだ。同時に、祖母から発せられた冷気が身体中を貫くような感覚がして、心臓が大きくうった。そして鼓動は段々はやくなり、血液が顔に集まり、熱くなった。猛烈に自分のことが恥ずかしくなったのだ。
 祖母がもう長くないことを、わたしは知っていたはずだ。なのに、祖母が会いたがっていたと聞いても関心が持てず、いつか会いに行けばいいと先延ばしにしたのだ。自分のことがまだ一人でできないような幼いころに、仕事で忙しい母の代わりをしてくれていたことも、周りの同級生よりも自分のことができるように家事や勉強を教えてくれたことも都合良く忘れて、祖母はなんだかんだ長生きするだろうと決めつけていた。なのに学校の友達には、祖母のことを心配している良い子を気取った。そんな自分に酔って、性格も、とくに悪くない方だろうと評価していた自分自身がどうしようもなく愚かだと思った。
そんな自分自身に腹が立って、情けなくて、祖母に申し訳なくて、涙が込み上げてきた。
こぼれ落ちそうになる涙を制服の裾で急いで拭って、興奮しないように息を止めた。わたしに、泣く権利なんて無いと思った。
 鼻からゆっくり息を吐きながら、祖母の頬にスポンジを当てた。スポンジ越しに祖母の冷たくなった皮膚を感じる。丁寧に、時間をかけて化粧をした。皺のあいだや、長く酸素マスクをつけていたせいで赤黒く跡のついた肌をファンデーションで隠し、唇に紅をつけた。少し出た歯に紅がついてしまったところはティッシュで丁寧に拭き取った。
化粧の終わった祖母の顔を眺める。幼い頃に見た祖母の顔と同じだと思った。さっきまで荒波のようだった感情は、化粧をしていくにつれて静まっていって、今は冷静になれているような気がした。
私は祖母の顔を覗き込んだ。
「おばあちゃん、ありがとう」
わたしは無意識に声をかけていた。祖母にこの言葉が届くように、何度でも言おう、そう心に誓った。

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