NAGOYA Voicy Novels Cabinet

はとさん

道を歩く鳩

 朝の通学路で鳩が死んでいた。車に轢かれたのだ。時間が経って赤黒い塊になってしまったそれは、確かに鳩だった。土鳩特有のピンクの足だけが鮮やかなままだった。
 なぜよりによって朝から。教室に入ってからもあの鳩のことを考えた。私の席は一番後ろの窓際で、物思いに耽るには特等席だ。6月の学校には灰色の空気が漂っている。一番後ろから眺める教室はひどく窮屈に見える。まだ始業前だというのに、みんな単語帳や参考書を開いて、同じ形の背中を丸めている。私は母に流されるまま入学したこの進学校に、受験期になっても馴染めない。勉強は好きだけど、それだけじゃ息が詰まる。まっさらな進路希望調査の用紙をファイルから出すと、ぺらという音がしんとした教室に響いて、今日はもう家に帰りたくなった。息を吐いて窓の外を見やる。死んだ動物の魂は、かわいそうだと思った者に取り憑くという迷信を私はまだ信じていた。かわいそうに思うに決まっているじゃないか。野鳥や野良猫たちは突然車に轢かれても、きちんと葬られるわけではないのだ。授業中も、私は鳩のことばかり考えた。
 家に帰ると鳩がいた。今朝の鳩だとすぐにわかった。ベッドのど真ん中で丸く膨らんでいる鳩は目を細く開けて、私に話しかけてきた。
「あ、おかえりなさい」
 鳩らしくない声だった。妙に包容力があってやさしい。そして、不思議と全然怖くなかった。
「今朝、私を見てかわいそうだと思ったでしょう?」
「...思いました」
「鳩の間でも有名なお話ですよ。野良猫の界隈で流行った遊びみたいですが、最近はあまり聞きません。ですから私が路上で死ぬ時は、絶対にこの遊びをやろうと思っていたんです。最後の夢が叶いました」
 鳩は小さく、くくと言って笑った。
「遊びって...その、成仏とかはしないんですか?」
「さあ。でもまだ来たばかりですから、もうしばらくはここにいます」
 私は私に取り憑いた鳩を、特に名乗らなかったので「はとさん」と呼ぶことにした。物腰が柔らかくてまるまるとおおらかな鳩には、ひらがなが似合うと思ったのだ。はとさんは私の首元で眠った。はとさんには体温がなかったけれど、羽毛が触れている部分はふわふわで、私の左側は徐々に温まっていった。
 次の日もまた次の日も学校から帰るとはとさんはいて、寝る前には首元で色々な話をしてくれた。嵐の夜の寝床のこと。烏とは意外と仲が良いこと。元伝書鳩のおじさんの武勇伝。子どもを1羽も死なせることなく育て上げた夫婦の話。
「土鳩は都会に住むので、毎日たくさんの鳩が私のように事故で死にます。もちろん、飢えて死んだ鳩も、他の動物にやられた鳩も大勢知っています」
「そんな生きるか死ぬかの毎日って、想像がつかない。生きてるだけで大変なんだね」
「わからなくても無理はありません。私たち鳩も、人間たちの死にたい気持ちはわかりません」
 そう言うとはとさんは一息つくように、くるる、と鳴いて寝てしまった。いつもは私の方が先に寝落ちてしまうのに。はとさんの胸はメープルシロップみたいな匂いがした。
 ある日、珍しくはとさんが質問をしてきた。
「学校は楽しいですか」
「楽しくはないけど、はとさんみたいに過酷じゃないよ。でも、時々すごく窮屈なの。...自分で選んだ場所じゃないからかな」
「窮屈ですか。それはもったいない」
「はとさんみたいに飛べたらなぁ」
 苦笑いで冗談を言うと、はとさんはまっすぐ私の目を見て言った。
「あなたはあなたの意思と足で、行きたい方へ行くべきです。あなたがこれからも生きていく世界は、本当に広いのですから」
 空から世界を見てきたはとさんの言葉は、私にささやかな羽をくれた。初めて進路の相談をすると、母は喜んでくれた。とりあえず埋めた進路希望調査用紙を鞄に入れて学校に行った。久しぶりに生きている感じがした。家に帰ると、もうはとさんはいなかった。
 街を歩くと、そこらじゅうで土鳩と出会う。不運な目にはなるべく遭いませんようにと祈りながら彼らを目で追っては、はとさんの胸のふわふわと、メープルシロップのような匂いを思い出す。

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